「1874年」
これが世界のアートの歴史にとってとても大事な年だということをご存知だろうか。日本の年号で言えば明治7年。江戸時代の鎖国から解き放たれ、ヨーロッパやアメリカを追いかけて近代化に邁進しはじめた頃。欧米を中心に世界中で機械化が大きく進み、人々のライフスタイルや考え方も劇的に変わっていき、新しい時代への希望と変化への不安が混ざり合っていた時代だった。
この年の4月15日、パリでまさにそんな時代を映すかのような若き画家を中心にした31人の美術家たちの展覧会が始まった。名を連ねたのは、クロード・モネ、オーギュスト・ルノワール、エドガー・ドガ、ポール・セザンヌなど。発表されたのはそれまでの古典的な絵画のスタイルを根底から一新するような作品ばかり。しかし会場に訪れた人々の中で評価する人は多くなく、むしろ批判の嵐で美術界と世間は騒然となった。
これがのちに「第一回印象派展」と呼ばれるようになる伝説の展覧会。ここで生まれた「Impressionnisme(印象派)」という言葉と代表的な画家たちの名はやがて世界へと広がり、近代アートの扉を大きくひらいていく。
今年2024年は、その1874年からちょうど150年目にあたる。それを記念して近代アートの殿堂であるオルセー美術館では、7月14日まで展覧会「パリ1874年 ー 印象派の発明」が開催されている。世界随一の印象派コレクションでも知られるオルセーだけに、美術館の威信もかけた展覧会には所蔵品をメインにイギリスやアメリカなど各国の主要美術館から合わせて約180点もの作品が集結。またとない機会に多くのファンが詰めかけている。
「印象派」の画家たちは、広がる自然や発展するパリの街中で、モチーフとなる風景や光、あるいはそこに生きる人物たちのつかの間の一瞬の印象を、素早く生き生きとしたタッチで描いた。それはちょうど19世紀前半に発明された「写真」が普及しはじめた頃。彼らは、輪郭を大事に写実的に描くことよりも、絵画にしかできない新しい方法を生み出そうとしていた。あるいはドガのように、一瞬を鮮やかに切り取る写真に影響されて絵画のスタイルを確立していく画家もいた。
それまでの時代の美術界で高く評価されていたのは、歴史的な物語やギリシャ・ローマの神話を写実的に描く表現方法。当時、国が主催する「サロン」と呼ばれる公式な展覧会(官展)では、まだまだこうした古典的な作品が選ばれ、新しいスタイルを模索する若い芸術家たちの間で不満を持つ者が現れ始めた。「いま私たちが生きる時代を映した絵を描くべきではないのか」と。
1873年、そんな前衛の芸術家たちが集まって「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」を設立。こうして国の「サロン」に対抗する最初の展覧会が翌年4月に開かれることになったのだった、
会場はパリのオペラ座に近い「カピュシーヌ大通り35番地」。写真家として名を馳せたナダールのスタジオを使ったものだった。明るい光が差し込む上階の2つのフロアで、しかもそこは最新のエレベーター付き。ガス照明を使って夜間も公開することで、観客の気持ちも高めようとしたという。今回のオルセー美術館の展覧会の冒頭では、当時の会場の風景もCG動画で再現。よりリアルに150年前の雰囲気を実感することができるのも興味深い。
そしていよいよ展示作品が現れる。1874年当時と同じような落ちついた赤系の壁面に並ぶ画家たちの作品。これらが実際にあの「第一回印象派」展に展示されていたのだと思うとやはり感慨深いものがある。まずはルノワールの『踊り子』(ワシントン、ナショナルギャラリー所蔵)や『桟敷席』(ロンドン、コートールド美術館)、ドガ『舞台上のバレエ・リハーサル』(オルセー美術館)など、印象派の画家たちが好んで題材にした「劇場」のシーン。いまでは世界の至宝ともされる作品ばかりだが、最初は作家自身さえ、その未来を想像できなかったに違いない。
こうした印象派の作品がいかに「特別」だったか。今回の展覧会では、同じ年の5月にシャンゼリゼ通り沿いの会場で開催された国の「サロン」で選出された作品群も比較するように展示されているのが特徴だ。
その差は面白いほどに一目瞭然。18世紀から続いてきたような歴史的な物語や宗教、神話をテーマにしたり、オリエンタルな世界に彩られた巨大な絵画や肖像画たち。こちらが「正統」とされていた時代に、一見ぼんやりと淡いタッチの印象派の絵がどう見えたかを想像すれば、沸き起こった賛否両論の理由もわかるというものだ。
この第一回印象派展にはポール・セザンヌも名を連ねていた。彼はこの『首吊りの家』『モデルヌ・オランピア』など3点を出品。しかしほかの画家のような「つかの間の印象」を描くことへの違和感、あるいは国のサロンに出品しないという方針にも反発して、やがて「印象派」から距離を置くようになる。
エドュアール・マネも印象派から距離を置いた。彼は近代アートの先駆者の一人として、ドガやルノワール、モネら印象派の画家たちのメンターのような存在だったが、彼自身は国のサロンを中心とするアカデミックな画壇から離れられず、1874年の展覧会への参加を拒み続けた。「この流派の主が(展覧会に)いなかった。それはマネだ」ある美術批評家は第一回印象派展の感想にこう綴ったという。上記の作品『鉄道』は同じ年の「サロン」に選出され、展示されていた。アカデミックと前衛のあいだで揺れ動くこの時代の画家の思いを代表した作品と言えそうだ。
さらに展示は、ベルト・モリゾ、カミーユ・ピサロ、そしてクロード・モネなど第一回印象派展の代表的な作家の作品を紹介する。彼らは自然や大気、光の変化を細やかにとらえるとともに、それを見ている自分の目、主観的な感覚も絵に写したいと考えていた。私たちの時代には当然のように感じるが、画家の主観や個性を表現するという発想は実は新しいもので、これが印象派以降の芸術家たちに大きな影響を与えることになる。
その象徴と呼べるのは、やはりクロード・モネだろう。彼は展覧会に5点の油絵とパステル画7点を出品した。この作品『印象・日の出』は、印象派を代表する作品で彼が育った港町ル・アーブルの美しい日の出のシーンを描いたもの。美術批評家のルイ・ルロワが、当時の展覧会の様子を記事に書いているのだが、その中でこの作品を観ながら「印象、そうだろうと思ったよ。なにしろ私が印象を受けたのだから、印象がそこにあるに違いないと思ってたよ」と皮肉まじりに語るシーンがある。絵画というよりはスケッチ程度のもので、印象しか感じない、という批判から「印象派」という呼び方が生まれた、というのはよく知られている通りだ。
結果的に「印象派」という呼び名は世間では好意的に受けとめられ、画家たちも自ら「印象派」を自認するようになる。この1874年の展覧会のあと、1876年には2回目、そして1877年には3回目となる展覧会が開催され、ここで初めて画家たちは自分たちを「印象派」であると宣言し、新聞も発行。オルセー美術館の展覧会では、この新しい芸術運動がひとつの実りを結んだこの第3回印象派展も取り上げている。
モネが『サン・ラザール駅』、ルノワールが『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(どちらもオルセー美術館蔵)など後世に名画と評価される作品を発表。また展覧会の資金援助でも尽力した画家ギュスターヴ・カイユボットの出展もあり、女性2人をふくむ18人の芸術家、245点もの作品を展示。1886年まで8回開催される印象派展の中では最もインパクトのある展覧会となった。
国や美術館の主導ではなく、画家たち自らが立ち上げた1874年の印象派展。当初の批判、あるいは作品がほとんど売れないという苦難にも関わらず自分たちの感性を信じ、スタイルを貫いた姿勢はやはり美術史の中でも特筆すべきものがある。それから150年。彼らがその土壌を作ったとはいえ、高度に専門化され、商業化され、すっかり様変わりした現代のアートシーンが当時の画家たちの目にどう映るのか気になるところだ。
そしてオルセー美術館企画展示室の展覧会のあとは、5階にある印象派絵画室に必ず立ち寄りたい。当時の画家たちの「いまを描きたい」という思いが、そこにはあふれている。
展覧会『パリ1874年 印象派の発明』
Paris 1874 Inventer l’impressionnisme
会場:オルセー美術館 Musée d’Orsay
会期:2024年7月14日(日)まで
詳しくは美術館公式サイトへ(英語)
※記載情報は変更される場合があります。
最新情報は公式サイトをご覧ください。
(文)杉浦岳史/ライター、ポッドキャストナビゲーター
2009年からフランスに在住。パリでアートマネジメント、美術史を学ぶ高等専門学校IESA現代アート部門を修了。2013年よりArt Bridge Paris – Tokyo を主宰。広告、アートの分野におけるライター、アドバイザーなどとして活動中。ポッドキャストラジオ「パリトレ」ナビゲーター。