今回は、美しい緑に包まれたあるパリ郊外の風景と、誰もが知るモダンアートの潮流や名画にまつわるお話しをしてみたい。
アート作品を語るときには、まずは当然ながらそれを創った芸術家に注目することになる。しかし実際にはいつもそれを評価する評論家やジャーナリスト、芸術家を支援する画商やコレクター、パトロンなどの存在があった。一人一人の芸術家、一つ一つの作品をめぐって多くの人々が関わり、彼らを取り巻くさまざまな物語がアートの歴史に彩りを添えてきたと言ってもいい。
19世紀の後半にパリで「印象派」が話題になったときにも、そうした重要なサポーターの姿があった。その中の一人が今回ご紹介するギュスターヴ・カイユボット(1848~1894)。彼自身も画家であり、多くの作品を世界中に残しながら、コレクター、そしてパトロンとして、若いアヴァンギャルドな画家たちを支えた。

フランスの上流階級に生まれたこのギュスターヴ・カイユボットが育った一家の別荘がパリ郊外にある。そこはパリのリヨン駅から郊外電車で南東へ約25分のYerres(イエール)という街。駅から15分ほど歩いた場所にある邸宅と11ヘクタールもの広大な敷地が、いまは一般に公開されている。

もとは、パリにあったレストラン「オー・ロシェ・ド・カンカル」のオーナーシェフ、ピエール=フレデリック・ボレルが大切な得意客を招くために1824年頃から開発したものだという。美しい列柱のあるネオ・ルネサンス様式の邸宅のほか、美しい庭園内にはオランジュリー(果物などの植物の温室)や山小屋、礼拝堂などが点在。まるでロココ時代の華やかな絵画の雰囲気をそのまま再現したかのような光景が広がる。




ギュスターヴ・カイユボットの父マルシャル・カイユボットは、パリでナポレオン3世の時代に軍隊の制服などの織物を扱い、巨万の富を築いたブルジョワジー。1860年にちょうどイエールの町にパリから鉄道が開通したこともあってこの邸宅を購入し、バカンスのための静かな別荘として一家で過ごすようになったという。庭園に山小屋をつくり、先妻とのあいだに生まれた長男が神父だったことから礼拝堂を建て、室内にビリヤードサロンをしつらえたのは彼だった。

二人の妻に先立たれ、三人目の妻セレステ・ドフレネとのあいだに1848年に生まれたのがギュスターヴ・カイユボット。パリから一家でイエールにやってきたのは、ギュスターヴが12歳のときだった。セーヌ川の水源のひとつであるイエール川の美しい水辺と森、農園まであった多様な表情をもった自然の中で、彼は絵を描くことを覚え、多感な青年時代を過ごした。


ギュスターヴは、法学を学んだあと本格的に創作の道に進み、23歳にして著名な画家レオン・ボナのアトリエに入り、パリのエコール・デ・ボザール(パリ国立高等美術学校)にも合格。エドガー・ドガやクロード・モネなどと出会うが、ボザールは1年で中退。そこへ1874年には父の死が重なり、彼の母とギュスターヴをふくむ子ども4人に大きな遺産が相続されることになった。
この1874年といえば、ドガやモネ、ルノワールら若き画家たちによって第一回印象派展と呼ばれるようになる展覧会がパリで開催された年。ギュスターヴ・カイユボットは、この第一回目の展覧会こそ参加しなかったものの、この頃から自分の資産を活かして友人の画家たちの作品を購入するようになり、ルノワールの誘いもあって1876年の第二回からは自らも印象派展に参加。彼の代表作の一つ《床の鉋かけ》(オルセー美術館蔵)のほか8点の作品を出展した。

そして第三回の開催には、カイユボット自身が資金調達や宣伝も行うなど、企画・サポートの面でも活躍した。実はこのとき出展されたルノワールの名作《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》、モネの《サン=ラザール駅》をのちに購入したのもカイユボットだった。

このあとも第7回までほぼ毎回、印象派展に名を連ねたカイユボット。それぞれの画家たちの思惑の違い、思わしくない売り上げもあって何度も開催が危ぶまれたこの展覧会が続いたことには、彼の功績や努力が大きかったとされる。とりわけ友人の中でも近しい間柄だったモネからは多くの作品を購入し、幾度となく経済的援助をするなど、半ばパトロンのような役割も果たしていた。
カイユボットは、1879年にイエールの土地を売却して、1882年にはプティ=ジェヌヴィリエというパリの北西に屋敷を建てて引っ越す。この頃のカイユボットはボートやセーリングにのめり込んでいた。おそらく同じセーヌ川でも川幅が広く、流れの緩やかな下流を選んだのだろう。モネの家により近い場所を、という想いもあったかもしれない。実際、新しい屋敷には広大な庭園や温室を築き、庭づくりでもモネと情報交換をしていたとされる。

ところが1894年、カイユボットは45歳の若さで世を去ってしまう。その早すぎる死を予感していたのか、彼は弟が26歳で亡くなった1876年頃から自分が所有する絵画コレクションを国に遺贈するための遺言書を書き始めていたという。そして彼が亡くなったときには、弟のマルシャルとルノワールが遺贈の手続きを進めた。持っていたのは印象派を中心にした友人の画家たちの作品。まだ評価の定まらない、むしろ斬新すぎて批判さえされた画家たちの作品を国が受け取ることには、強い抗議も起きた。しかし二人は粘り強く交渉し、カイユボットの願い通り1929年にルーヴル美術館に収蔵され、のちに1986年オルセー美術館の誕生に合わせて移管された。
そのコレクションの数は約40点。けっして多くはないが、ここにはマネの《バルコニー》、モネの《サン・ラザール駅》、ルノワールの《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》《ぶらんこ》、ドガの《バレエ》など、オルセー美術館を代表することになる名作も含まれていた。

ギュスターヴ・カイユボットがいなかったら、いま語られるアートシーンもずいぶんと違ったものになったかもしれない。彼は自分から才能を売り込むようなこともなく、長いあいだ低い評価に甘んじていたが、ようやく近年になってコレクター、パトロンとしての役割もふくめその功績が認められてきた。
そして今年10月からこのカイユボットに光をあてた展覧会がオルセー美術館で開催されることになった。印象派をリードした「もう一人の男」の実像がどこまで明らかになるか、今から楽しみだ。
Maison Caillebotte カイユボット邸
公式ウェブサイト(英語)
https://en.maisoncaillebotte.fr
Musée d’Orsay オルセー美術館(英語)
公式ウェブサイト(英語)