パリに数あるアーティスト個人の美術館でも世界的に最も有名な「パリ国立ピカソ美術館」。9月のパリを彩るデザインウィークやファッションウィークでも華やぐ人気のマレ地区にそれはある。美術館が入る「サレ館」は、かつてルイ14世の時代に塩税徴収を担当して私腹を肥やしたピエール・オベール・フォントネーが3年の歳月をかけて1659年に完成した洋館。その経緯から人々が「Salé サレ=しょっぱい」館と呼ぶようになったのが定着したのだという。展示室へと向かう豪華な階段には、当時の美しい彫刻装飾が残されている。

ピカソ美術館コレクション室に向かう大階段

画家パブロ・ピカソが1973年に亡くなると、相続税の代わりとしてフランス政府に納められた膨大な作品コレクションを展示するためこの「サレ館」が選ばれた。1977年に完成したポンピドゥーセンター近代美術館にほど近く、すでに世界的な芸術家として知られていたピカソを紹介するにもふさわしい拠点。時間をかけた修復を経て、1985年10月に美術館はオープンした。

ピカソ美術館に隣接するオテル=サレ=レオノール=フィニ庭園

その後、5年の歳月をかけてリニューアルした2014年からは、築300年以上にもなる3階建の建物を活かしつつ、モダンな内装で展示室を構成。フランスのアンティーブやスペインのバルセロナなどにある世界各地の「ピカソ美術館」のなかでも、充実したコレクションと企画展で人々を惹きつけている。

誰もが名前を知り、代表的な作品を思い浮かぶであろう巨匠パブロ・ピカソ。だが91年もの長い生涯のなかで、時代とともにダイナミックに変化していった彼の創作人生を知る人は多くないかもしれない。2027年3月までの常設展示として現在開催されている「LA COLLECTION. REVOIR PICASSO」(コレクション、ピカソ再発見)は、彼の人生の全体像をつかむのにはぴったりだ。

ピカソ美術館展示室

スペインのアンダルシア地方にある街、マラガで1881年に生まれたピカソ。美術教師で美術館の学芸員をしていた父の指導もあって早くから才能を見せた彼は、1895年にバルセロナに移住したあとマドリッドの王立美術アカデミーに入り、なんと18歳でバルセロナでの個展を開催する。この頃から「華の都」パリのスタイルを真似たバルセロナのキャバレに通い詰め、憧れを胸にパリへと旅立つことになる。

パリは1900年の万博でいつも以上に華やいでいた。ピカソの《最後の瞬間》がスペイン館を代表する作品となり、彼もさっそくモンマルトルに行き、同じ地元出身の画家イシドル・ノエルのスタジオに潜り込む。ムーラン・ド・ラ・ギャレットやムーラン・ルージュなど本場のキャバレに通い、一緒にパリに来た友人カサヘマスとパリを謳歌していた。しかしこのカサヘマスが突然の自殺。それを悼んだピカソが《カサヘマスの死》という絵を描いて、これがピカソの「青の時代」の始まりとされる。

「カサヘマスへの思いで、私は青い絵を描き始めた」

彼自身がこう語ったように、カサヘマスの死、そして華やかな裏の孤独なパリのせいもあってか、この時期はあのピカソでさえ精神状態があまりよくなかったといわれ、経済的にも苦境にあった。そんな最中に描かれた「青の時代」の代表作が、ここピカソ美術館にある名作《自画像》(1901年)だ。

パブロ・ピカソ《自画像》(1901)

うつろな瞳、喪に服しているかのような姿にこの時代の苦境が伺える。ほかにもNYのメトロポリタン美術館にある《盲人の朝食》など、憂いをふくんだこの時代の傑作は数多い。

ピカソをこの苦境から救ったのは、ある女性との出会いだった。その人の名は、フェルナンド・オリヴィエ。1904年からピカソはパリに拠点を移し、モンマルトルでアーティストの溜まり場になっていた低家賃のアパート兼アトリエ「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」に住みはじめる。ここでフェルナンドに出会い、彼女をミューズにして絵を描き始め、彼は自分らしさを取り戻す。これが「ローズ(バラ色)の時代」の始まりだ。

ピカソが所有していたアフリカ彫刻(ピカソ美術館)

ほどなく彼はパリの民族博物館でアフリカ彫刻と出会い、その斬新な造形感覚に魅了される。ピカソはそこにポール・セザンヌの絵からインスピレーションを得た「ボリュームや形で物事を表現する」アイデアを織りまぜ、人物と背景の構成に取り入れるという実験を加えていく。ピカソ美術館の展示ではその様子とピカソの絵の変化が手に取るようにわかる。

パブロ・ピカソ《木》(1907)・《木の下の3人》(1908)(ピカソ美術館)
パブロ・ピカソ 《アヴィニョンの娘たち》のための習作(1906-07)(ピカソ美術館)

これらの実験はやがて《アヴィニョンの娘たち》(ニューヨーク近代美術館所蔵)という作品になって、美術界にパブロ・ピカソの名を知らしめることになった。こうしたピカソ的なセザンヌの解釈は、このあとの「キュビスム」というスタイルにつながっていく。

パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》(1907)(ニューヨーク近代美術館)
ポール・セザンヌ《黒い城》(1903-04)ピカソが所有していたもの(ピカソ美術館)

ポール・セザンヌのこの作品は、ピカソが生前に所有していたもの。後世の多くの画家に影響を与えたセザンヌの特徴に、ボリュームや形の表現とともに「多視点」という要素がある。セザンヌは視線の動きで物事の見え方が変化することに着目したが、ピカソは友人のジョルジュ・ブラックとともに多視点をさらに強調し、裏側の見えない部分までもふくめて一枚の絵に表現しようとした。セザンヌの「円柱、球、円錐を通して自然をすべて遠近法で扱う」という言葉を実践するように、彼ら二人は立体で対象物を表現する「キュビスム」を展開。やがてそれはコラージュ、立体へと発展していった。

パブロ・ピカソ《ギターを持つ男》と《マンドリンを持つ男》(ともに1911)(ピカソ美術館)
パブロ・ピカソ《グラス、ワインボトル、タバコパック、新聞》(1914)(ピカソ美術館)

そして1914年に始まる第一次世界大戦。ピカソはスペイン国籍のため徴兵はされなかったがイタリア・ローマへと旅立つ。そこでロシアから亡命していた振付師のディアギレフと出会い、バレエ・リュス(ロシア・バレエ)の運動に加わる。芸術監督として詩人のジャン・コクトー、音楽にはストラヴィンスキーやエリック・サティ、そして舞台芸術と衣装をピカソが手がけるという画期的なプロジェクト。ここにダンサーとして参加していたのが、ウクライナ人のオルガ・コクローヴァ。ピカソの最初の結婚相手になる人だ。

パリに戻った彼はロシア貴族の血を引く美しいオルガをモデルに絵を描き始めるが、オルガは「私だとちゃんとわかるように描くように」とピカソに念を押す。それまでの独創的な人物表現を見れば彼女の気持ちもわかるが、愛する妻のこの言葉を聞いたピカソはあっさりとクラシックな写実スタイルに還る。

パブロ・ピカソ《肘掛け椅子のオルガ・コクローヴァの肖像》(1918)(ピカソ美術館)

イタリア滞在の影響、そして絵画とは何かという答えを求めて、ピカソはイタリア・ルネサンスから古代ギリシャ彫刻など、古典的で伝統的な表現へと新たなチャレンジを始めた。彫刻のような量感のある人物像、どこかシンプルで堅牢、静かな画面構成。オルガが息子のパウロを出産した1922年に過ごしたブルターニュ地方のディナールで制作した《ビーチを走る二人の女性》はその代表作といえる。

パブロ・ピカソ《浜辺を走る二人の女性》(1922)(ピカソ美術館)
展示室をまわりながら時々窓から見える外の風景がパリらしい
パブロ・ピカソ《牧神パンの笛》(1923)、《泳ぐ人》(1929)(ピカソ美術館)

芸術家たちがつねに斬新なアートの表現を探し求めていた時代。ピカソはその先駆者であると同時に、ほかの潮流からもつねに影響を受けて、創作のパワーの源泉にしていたように感じられる。ピカソたちのキュビスムに影響を受けたシュルレアリスムに、ピカソがまた影響を受けるというように。

そしてつねに新しい愛を求めて女性遍歴を重ねていったのも、よく知られたピカソの人生のエピソードだろう。オルガを妻にしたまま、1927年頃には17歳の若きモデル、マリー=テレーズ・ウォルターに、そして1936年頃にはサンジェルマン・デ・プレのカフェ・ドゥ・マゴで出会った写真家のドラ・マールと恋仲になる。オルガをクラシックなスタイルで描いたことは一瞬の気まぐれであったかのように、彼は相手を変えるごとに新たなピカソ・スタイルを開拓していった。

ピカソ美術館にはこのドラ・マールを中心に、ピカソが描いた女性の肖像をマルチに展示した部屋もあって興味深い。自分の古い殻を脱皮するように付き合う女性を変え、新たな創作の原動力にしたピカソのパワーはすごいが、そのたびに取り残され、翻弄された女性たちの気持ちを考えるとやりきれない。

パブロ・ピカソ《泣く女》(1937)(ピカソ美術館)

祖国スペインが内戦で混乱するなか、ピカソとドラ・マールの二人は反ファシストの政治的な信念でも気持ちを共有していた。現在マドリッドのソフィア王妃芸術センターにある傑作《ゲルニカ》の制作過程を、ドラ・マールが撮影していたことはよく知られている通りだ。ピカソ美術館にある《泣く女》も、内戦に関わるスペインでの爆破事件への悲しみをドラ・マールの肖像として描いたものとされる。

第二次世界大戦の荒波を越えた1953年、71歳のピカソは最後のミューズとなる女性、ジャクリーヌ・ロックに出会った。場所は南仏のカンヌに近いヴァロリスという陶器の産地。ピカソはここから陶芸家としての道を歩み、美術館にも多くの作品を残している。

パブロ・ピカソ《手を組むジャクリーヌ》(1954)(ピカソ美術館)
ヴァロリス時代の作品を集めた展示室(ピカソ美術館)
パブロ・ピカソ《ヴァロリスの煙》(1951)(ピカソ美術館)

晩年を迎えても、南仏を拠点に旺盛な制作を続けたピカソ。最後はコート・ダジュールの村ムージャンで1973年4月8日、91歳でこの世を去るが、数々の女性遍歴を映すように、相続の大きな問題が生じた。すでにピカソは個人のコレクションをフランスに寄贈する相続手続きをしていて、美術館のコレクションへとつながることになる。現在ピカソ美術館では297点の絵画作品、368点の彫刻や立体作品をはじめ、約5000点もの作品を所蔵。さらにセザンヌやルノワール、マティスなどピカソが敬愛する芸術家たちの作品もある。

世界でいちばん名の知られた芸術家が、最後まで手元に置いた作品たちを見ることができるパリのピカソ美術館。ポンピドゥーセンターやオランジュリー美術館など、ほかにもパブロ・ピカソの作品をもつミュゼ、あるいは彼が活躍したモンマルトルやモンパルナスを歩きながら、いまなおファンが多い巨匠の足跡をパリで訪ねてみたい。

館内にはカフェも。テラス席で静かなパリの空気を感じるのもいい。

Musée national Picasso-Paris

パリ国立ピカソ美術館

5 rue de Thorigny

75003 Paris

公式サイト(英語):https://www.museepicassoparis.fr/en

Share

LINK

×