というわけで、10回目を迎えたこの連載ですが、いよいよ核心を突いたテーマを扱ってみたいと思います。それはズバリ、「お洒落とは何か?」。何を隠そう、これこそが、僕が編集者としてファッションに携わることになって以来、つまり約四半世紀にわたって、ずっと考えていることなんですよね。


かねがね僕はファッションの魅力、面白さとは「それまで、街で見かけてもダサいとしか思わなかった服が、ある日突然、カッコよく見えて、次の日には欲しくてたまらなくなる、というところですよ」なんて、人に話したりしていたのですが、なぜ、そうしたことが起きるのかということのメカニズムは、なんとなくわかるような気もするけど、その決定的な解答はいまだに得られていないんです。


一般的な「流行」のメカニズムなら、それぞれのケースに応じて、起点となる出来事やその広がり方、そして廃れ方なんかを分析することも可能でしょう。ところが、こと「お洒落」に関していうと、もっと個人的な事情であるとか、その時々の自身の置かれた状況なんかが大きく影響してくるように思うんです。


というのも、海外に行くことが多い人ならわかると思うんですが、普段、東京でしている格好のまま外国の都市に行くと、なにか場違いな姿をしているような気分になることがあるんです。また、逆にパリで見たお洒落な人を真似た着こなしを東京ですると、どう考えても街の雰囲気に合わなかったりもする。もっとわかりやすいのは、コンサバな格好の人たちが集まる中で、全身黒のモード派が一人だけいるとカッコよく見えもするけれど、それが二人になると「あの人たち被ってんな」みたいな微妙な感じになるとか。とにかく、「何が、お洒落を決定づけるのか?」というのは、本当に謎なんです。

それで、自分なりに研究しようと、服飾の歴史に関する文献やらモード評論風の書物やらに目を通してみるわけですが、結局、それらが述べているのは「ファッション」を社会風俗の変遷の象徴と捉えたり、伝説的なファッションデザイナーの足跡を辿りながらデザイナーの意図やそこで編み出された技術の解説に重点を置いていたりして(なかには、ファッション雑誌に特有の言語表現を記号論的に分析するなんて試みもあるわけですが)、「お洒落とは何か?」を正面から理論づけているものに出会ったことは、いまだ無いわけです(あったら、スミマセン!)。


このことは、「お洒落」であるかどうか、あるいは、ファッションの良し悪しというのは、例えば美術作品の評価などと比べ、より複雑な要素が数多く絡むため、理論的に解析することが難しいことの現れと言えるかもしれません。なぜなら、美術的価値の有無が「美術史」の文脈と切っても切れないのに対し、ファッションの場合、その最上位にあるとされるモードの歴史を紐解くことによって、その価値が見出されるとは言い切れないからです。

つまり、「中世の欧州貴族たちの間に生まれた服飾における美意識が、近代化が進むとともにブルジョワたちへと受け継がれ、さらに20世紀に入り次々と現れた才能あるファッションデザイナーたちが、そうした服飾の美を同時代の精神を表象するクリエーションへと昇華し、現在ではポップカルチャーの最先端として扱われもする」という、「モードの歴史的文脈」を頭に叩き込んでいたとしても、それが「今日、私が着る服」を判断する材料には、ほとんどならないと思うんです。なぜなら、ファッションの価値は「今、この場所」で、「この私」をどれだけ魅力的に見せてくれるかにあるわけですから。


確かに1990年代以降、ファッションも美術と足並みを揃えるようにポストモダン化が進み、ともに既存の権威とは無縁の「ストリート」がシーンを活性化させてきたと言えるし、特にここ数年、ファッションアイテムの価値がアートマーケットさながら、セカンダリーでの価格上昇(いわゆるプレ値)で決まるというような風潮も見受けられので、それらをもってアートとファッションの類似性を語ることもできるでしょう。けれど、やはりファッションの本質的な価値は「今、この場所」で、「この私」が身に付けたいものであって、その歴史的なコンテクストから服を手に入れたり、将来的な価格高騰を見込んだ「含み益」から購入したりするのは、少なくとも「お洒落」とは違う価値観です。


もちろん、この「お洒落」という価値観に否定的というか、「お洒落」に振り回されて生きるのはバカバカしいという考えの人がいることも、僕は理解しています。おそらく、そうした人たちの心情を一言でまとめれば「お洒落には“再現性”が無い」と言うことでしょうね。要は「お洒落」とは、あまりに感性的な価値観であって、それを決定づける根拠が無さすぎる、と。これは、まさにおっしゃる通りとしか言えないのですが、でも、そのあまりに感性的な価値観にも多くの人々が共感する普遍性が薄っすらとあるのだと僕は思います。でなければ、(幾分、逆説的ではありますが)「お洒落」や「ファッション」は成り立たないはずです。では、その薄っすらとした、捉えどころのない普遍性に基づく価値観を描写するのに相応しい言説は存在するのでしょうか。おそらく、人類文化史や大衆心理の研究、アルゴリズムを駆使したマーケティング等の観点から「お洒落」を合理化しようと試みる人もいるでしょう。けれど、僕は「お洒落」とは、そうした理論化の網から、こぼれ落ちてしまうところにあると思うのです。


これは「お洒落」には限りませんが、どうしても例外ばかりで理論としては成り立たない、しかし、普遍的な感覚として、薄っすらではあっても確実に存在するものがあると、僕は思うんですね。そして、それが「今、この場所いる、この私」の真・美・善を決定づけることさえあるとも。であるならば、それを何と呼ぶべきか。少々大袈裟に聞こえるかも知れませんが、僕は、そうしたものこそが、「魂」と呼ばれるべきものだと思うのです。

「批評とは魂の唯物論的な擁護である」とは、ある高名なフランス文学者にして映画・文学批評家の言葉です。難解な文章で知られるこの批評家の言葉を僕が正しく理解しているとは到底思えませんが、それでも、この「魂の唯物論的な擁護」というフレーズは僕を捕らえて離さず、この謎めいた言葉に導かれるようにして、僕は「お洒落」に振り回され続けているような気がするのです。なぜなら、なにより身近で日常的に、そして自分の人生と寄り添うかたちで、「魂」を唯物的に経験できるのが「お洒落」を楽しむことだと、なぜか僕は確信してしまっているから。


なんだか、話がとんでもなく飛躍してしまったように思われるかも知れませんが、脱線ついでに、大きなお世話を承知で申し上げさせていただけば、皆さんが映画を観たり、小説を読んだりするとき、そして、美術や音楽を鑑賞するとき、ぜひ、ご自身の「魂」を感じて、その「魂」と会話をしながら、それぞれを味わって欲しいと思うのです。SNSに飛び交う言葉や画像、さも親しげな企業のイメージ戦略はクールにやり過ごし、あくまで、ご自身の「魂」が感応するものを信じてほしいのです。メディアが醸成する空気に乗って、カルチャーやアートをただの「商品」として消費してばかりいると、いずれ自分自身も「数量化」された「情報」として、誰かに売り捌かれてしまうのではないでしょうか。

ところで、この連載は今回が最終回となります。これまで、お読みくださった皆様、ありがとうございました。最後にご紹介する動画はザ・スミス『Stop Me If You Think You’ve Heard This One Before』のMV。

メガネに刈り上げの陰キャ集団が貧乏くさいジーンズ姿で寂れた街を自転車に跨って走り回るという、このラグジュアリーとは対極にある様子が、なんともフレッシュでスタイリッシュに思えてしまう。この価値観の転倒こそが「お洒落」なんだと僕は思います。

(もっとも、この「モリッシースタイル」も、なんかのはずみで、どこかのブランドがラグジュアリー化しちゃったりするのが、ファッション業界のたくましさであり、面白さでもあるんですが)

*メインの画像は元ザ・スミスのヴォーカリスト、モリッシーのツアーグッズのトート。プリントされた『世界中の万引き犯たちよ、連帯せよ』とのスローガンは、ザ・スミスの楽曲タイトルなのです。




鈴木哲也 Tetsuya Suzuki

編集者/プロデューサー

株式会社アップリンク、株式会社宝島社を経て、2005年に株式会社ハニカムを設立し、同社の運営するwebメディア『honeyee.com』の編集長に就任(2011年からは同社の代表取締役も兼任)。2017年、株式会社ハニカム代表取締役並びにwebメディア『honeyee.com』編集長を退任。

現在は執筆、各種コンテンツ制作のほか、企業・ブランド・書籍・メディア等のプロデュース/ディレクションを行う。

著書に『2D(Double Decade of pop life in tokyo)僕が見た「90年代」のポップカルチャー』(mo’des book)

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