ミュージカルや映画にもなった小説『レ・ミゼラブル』で世界に知られている19世紀フランスの文豪、ヴィクトル・ユーゴー。彼はその83年の生涯の多くの時期をパリで過ごした。引っ越しが多く、果てはフランスを追われて亡命までするはめになるのだが、そんな波瀾万丈の人生の中でも16年(1832~1848)といちばん長く暮らしたパリ4区の邸宅が、いま「ヴィクトル・ユーゴー記念館」として一般公開されている。

パリ、ヴォージュ広場。この正面奥の建物がヴィクトル・ユーゴー記念館。

その場所は今やパリの一等地。マレ地区を象徴する「ヴォージュ広場」を囲むように立ち並ぶ建物の中にある。太陽王・ルイ14世のお爺さんでブルボン王朝の生みの親でもあるアンリ4世が「王の広場」として1605年に整備した広場とその周囲の館は今も美しい風景で人々を魅了する。緑あふれる夏、樹木が明るい黄色に染まる初秋の季節はその絵画のような景色にうっとりしてしまうほどだ。

ヴォージュ広場

ヴィクトル・ユーゴーがここ「ヴォージュ広場6番地」に引っ越してきたのは1832年10月。1822年にサン=シュルピス教会で妻のアデルと結婚したあと、5回も転居を繰り返していた彼が30歳にしてようやく落ちついたのがこの場所だった。彼は若くしてまずは詩の才能に目ざめ、17歳のときアカデミー・デ・ジュー・フロローという文学の権威ある賞で2篇の詩が入選、その後アカデミー・フランセーズのコンクールでも1位を獲得し、早くも文壇で頭角を現した。最初に出版された詩集『オードと雑詠集』は当時の国王ルイ18世の目にも留まり、アーティストや文人に与えられる国の年金を受けられるようになったというから、そのあまりの早熟ぶりに驚かされる。

ヴィクトル・ユーゴー記念館内部

そして、通常なら人生の熟年期に授与されるような国の勲章「レジオン・ドヌール」をなんと23歳にして受勲する。端から見れば順風満帆な人生のようだが、引っ越してきたこの頃、妻のアデルは別の小説家と不倫をしてしまって夫婦生活は破綻状態、兄は精神錯乱の状態で死に至り、と私生活は波乱に満ちていた。

ロマン派の画家ルイ・ブーランジェによるヴィクトル・ユーゴーの妻・アデル(左)・娘レオポルディーヌ(右)の肖像画

1789年に始まったフランス革命以来、相次ぐクーデターやヨーロッパを席巻したナポレオン体制、その後も混乱と政情不安が続いていたフランス。1800年代前半といえば、こうしたなかでも産業革命で社会が大きく変化し、市民生活が豊かになり、人々が人生と自由、愛などを真剣に考え、文学や芸術などさまざまな形で表現しようとした「ロマン派」の時代に重なる。現代につながる「人間主義」の価値がフランスをはじめとしたヨーロッパに育まれていった時期といってもいい。彼らブルジョワジーは、前の時代の貴族たちとは違った形で、暮らしを自分たちの趣味や趣向で装飾し、「個性を表現する」デザインやアートで満たそうとした。

画家レオン・ボナによるヴィクトル・ユーゴーの肖像画

肖像画や写真の気難しそうな雰囲気とは違い、ヴィクトル・ユーゴーもこうした新しい時代のスタイルを好んだようだ。彼は詩人、小説家として精力的な著作活動を続けながら、独自の美的感覚と旺盛な創作意欲を自身の家で発揮した。絵やイラストを描き、椅子やランプなどの家具をデザインし、時には自分でそれを創作し、さまざまなオブジェをコレクションして家に飾るというインテリアデザイナーも顔負けの仕事ぶり。現代のフランス人が大好きな、DIY(Do It Yourself)の先駆と言ってもいいかもしれない。

このヴィクトル・ユーゴー記念館には、彼の生涯と功績に関する事物とともに、実はこうしたクリエイターとしての顔があますところなく表現されている。

「中国風サロン」と呼ばれるこの部屋はまさにそう。ここに引っ越してきた次の年、妻アデルの不倫で結婚に破れた彼は、自身が創作した劇『リュクレース・ボルジア』に女優として出演したジュリエット・ドルエと恋に落ち、愛人関係になる。その後、ヴィクトル・ユーゴーはナポレオン三世との確執からフランスを離れざるをえなくなり、ベルギー、さらにフランスのノルマンディー近くにあるイギリス領のガーンジー島に亡命。ジュリエット・ドルエも同行するのだが、このときに祖国を離れた彼女の心を癒すために、とヴィクトルが贈ったのがこの部屋だった。このガーンジー島の装飾がいまここに移築されている。

「室内装飾」という共通の趣味でつながっていた二人。まるでひとつの世界を創りあげるかのように室内いっぱいに満たされた装飾には、この時代に流行した異国情緒が満載だ。「シノワズリー(中国趣味)」の陶磁器を組み合わせた板張りの装飾、ひょうきんな人物のイラストや動物のデザイン、その造作や色はすべてヴィクトルがデザインし、自らも手を入れつつ、家具職人に造らせたもの。しかもただイメージ画を描いて発注したのではなく、原寸大で設計図を作ったというから本格的だ。装飾のディテール、モチーフのそれぞれにはジュリエットへの親愛の情、二人のあいだの思い出が込められているという。

別の部屋の木製家具、そして木製のシャンデリア風照明もヴィクトル自身がデザインしたもの。亡命先のガーンジー島が近いノルマンディー地方の草花などを採り入れた様式や、ゴシック様式を模した家具など、自由な発想とインスピレーションを得てデザインをしていたことがわかる。

ヴィクトル・ユーゴーがデザインした家具たち

ヴィクトル・ユーゴーが描いた『エディストーン灯台』(部分)

ガーンジー島亡命中の1862年に、ヴィクトル・ユーゴーはロマン主義文学の至宝と評される大河小説『レ・ミゼラブル』を発表する。彼自身もこの作品の出来映えには自信をもっていたといい、息子のフランソワに「これで私は死ぬことができる」とまで語った。それゆえ世間の反応を大いに心配したわけだが、とりわけイギリスでの評判が気になった彼は出版社のハースト&ブラケット社に電報を打つ。亡命中のため検閲を恐れた彼は電文に「?」とだけ記して送り、出版社はそれに大成功を伝える「!」で返信したという逸話が残されている。

そして1870年、19年ぶりに亡命先からパリに戻ったヴィクトル・ユーゴー。この記念館には、彼が晩年を過ごした「エロー通り130番地」(現在のヴィクトル・ユーゴー通り50番地)の寝室が移築され、忠実に再現されている。

彼がこのベッドで息を引き取ったのは1885年5月。83歳だった。詩人、小説家、劇作家、そして祖国フランスを愛する政治家としても活躍したヴィクトル・ユーゴー。亡命から戻った際にも英雄として大喝采で迎えられた彼は、議会のほぼ満場一致をもって「国葬」となることが決まった。フランスの歴史的な偉人たちを祀る「パンテオン」へと向かう棺の行列は、約200万人の人々が街路に出て見送ったとされる。

彼が最後に書き記した言葉は「愛すること、それは行動すること」。その言葉の通り、彼は何事にも情熱を傾け、自分の内面にある想いやイメージを、小説であれ、政治であれ、装飾であれ、ありのまま最大限に表現しようとした人だった。美しい広場に面した邸宅の中には、その情熱の強さが今までにない形で現れているように感じられる。

記念館内部から見るヴォージュ広場


Maison de Victor Hugo

ヴィクトル・ユーゴー記念館

6 Place des Vosges, 75004 Paris


(文)杉浦岳史/パリ在住ライター
コピーライターとして広告界で携わりながら新境地を求めて渡仏。パリでアートマネジメント、美術史を学ぶ高等専門学校IESA現代アート部門を修了。2013年よりArt Bridge Paris – Tokyo を主宰。広告、アートの分野におけるライター、アドバイザーなどとして活動中。パリ文化見聞録ポッドキャストラジオ「パリトレ」毎週配信中です。

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