パリのオペラ座から北へ歩いて15分あまり。そこには、今から200年ほど前の19世紀初め頃に「ヌーヴェル・アテーヌ」(新しいアテネ)と名づけられた新興住宅地が造られた街がある。その名の通りギリシャ、イタリア風のヴィラ(別荘)や個人の大邸宅、芸術家のアトリエが建てられ、今でもその面影を残した美しい住宅が点在し、現代のレストランやカフェとも調和して、パリらしい空気を漂わせる。

19世紀パリの新興住宅地「ヌーヴェル・アテーヌ」にあるサン=ジョルジュ駅前広場


そんな「ヌーヴェル・アテーヌ」の中で、まるでかつての時代に戻ったかのように穏やかな時を刻むミュゼ、それがパリで特に女性たちの人気を集める「ロマン派美術館」だ。


住宅街に突然現れる巨木が美術館の小さな入口を彩る

19世紀の画家シェフェールの邸宅がいまは美術館に


樹齢を重ねた大木に迎えられて小さな路地を奥に進むと、そこは街の喧噪を忘れるようなオアシス。美しい表情を見せる庭園では季節の花、今の時期はバラや紫陽花がそこかしこに咲き、訪れる人を愉しませてくれる。

美しく手入れされる美術館の庭園には季節を彩る花々


モンマルトルへと向かうゆるやかな高台に生まれたこの住宅地は、環境の良さと光を求めた多くの芸術家たちを魅了した。美術界の巨匠で、ルーヴル美術館にある絵画《民衆を導く自由の女神》で知られるウジェーヌ・ドラクロワや、同じ展示室の《メデューズ号の筏》を描いたテオドール・ジェリコー、風景画家のテオドール・ルソー、象徴主義のギュスターヴ・モローや印象派のクロード・モネ。そして女流作家のジョルジュ・サンドや『三銃士』のアレクサンドル・デュマ、『レ・ミゼラブル』で知られるヴィクトル・ユーゴー。さらに作曲家・ピアニストのフレデリック・ショパンなど、世界中にその名を知られる錚々たるアーティストたちがこの界隈に足跡を残している。

この界隈からはモンマルトルの丘のサクレ・クール寺院が見える

瀟洒なカフェや劇場が点在する現在のヌーヴェル・アテーヌ



その中の一人、オランダ出身の画家アリィ・シェフェール(1795-1858)は、1811年にパリに移住。1830年の7月にここ「ヌーヴェル・アテーヌ」のシャプタル通り7番地(現在の16番地)に居を構えた。いま「ロマン派美術館」のある建物だ。

上の写真で見たイタリア風の正面建物は2階建ての居住空間。彼はその向かいの両側に北向きにガラスの屋根をもった2つのアトリエを造り、ひとつをサロン、もうひとつを仕事場として作品の制作に使用したという。

アリィ・シェフェールが描いた作品

シェフェールは1822年頃から、のちに国王となるオルレアン公ルイ=フィリップの子弟に絵を教え、すでにロマン派を代表する人物だった。彼がこの建物に引っ越してきた1830年は、ちょうどこのオルレアン公が7月革命で国王に就任した年。国王に近いシェフェールのもとには「ヌーヴェル・アテーヌ」に集う芸術家たちがやってきて、ジャンルを超えて交遊を育んだという。ドラクロワはよき隣人として互いに交流し、ショパンはここにあったプレイエル社のピアノを好んで演奏、作曲家のリストやロッシーニ、『クリスマス・キャロル』で知られる英国の作家ディケンズもここに・・・とパリの社交場、芸術村の雰囲気があった。

かつてのアリィ・シェフェールの美術館の常設展示

美術館の名前にもなっている「ロマン派(ロマン主義)」は、この19世紀の文化を代表する潮流のひとつ。ひとことではとても語りきれないのだが、あえて言うなら、古典的な規範や合理性などにとらわれず、人間の心の内面の動き、想像、恋愛、昂揚、あるいは憂鬱や不安といったものまでも自由に表現しようという動きと呼べるだろうか。18世紀頃から芸術や文学の世界で芽生えていた個の意識が、1789年のフランス革命やその後の革命戦争、ナポレオン戦争の混乱の中で紆余曲折を経ながら育まれる。そして唯一確かなものは自分の内面であるという発想につながっていく。


一方で産業革命が本格化して、蒸気船や機関車の発明で人の移動や「旅」という概念が定着。見たことのない異国への憧れを生みだし、それと同時に早まる技術の進歩に人々が抱きはじめた不安、あるいは悪夢への逃避、神秘、幻想、人間の狂気への興味などいろいろな要素がないまぜになって表現の世界が広がっていった。


この界隈に住み、アリィ・シェフェールとも交遊のあった作曲家フレデリック・ショパン(1810ー1849)と女流作家ジョルジュ・サンド(1804ー1876)の二人は、こうしたロマン主義時代の象徴ともいえる存在だ。

オーギュスト・シャルパンティエ作『1837年頃のジョルジュ・サンド』ちょうどショパンと出会った頃の姿

豊かな感受性と繊細な心をもったショパンと、「ジョルジュ」という男性の名前をペンネームに使い、パイプを吸いながら行動するほど強く、時に情熱的で独立心の高い女性像を貫いたサンド。二人は1836年に出会い、1838年になってショパンが28歳、サンドが34歳のとき二人の仲は公然のものになる。サンドにはすでに息子のモーリス、娘のソランジュという二人の子どもがいて、そこにショパンが加わってちょっと複雑な家族のような関係が始まった。4人は1838年の冬をスペインのマヨルカ島に滞在し、ショパンは後世に残る楽曲を書き上げたが、同時に肺結核を患い、看病するサンドと家族はそれに翻弄されることになる。


その後ショパンの療養のためバルセロナなどを転々とし、フランスのノアンにあったサンドの別荘で過ごしたあと、この「ヌーヴェル・アテーヌ」の界隈で一緒に住みはじめる。


サロンを中心にしたコンサートや作曲、ピアノの教師をしながら音楽家として名声を集めたショパンだが、病気は一進一退を続けながら徐々に悪化。サンドは、恋人というよりは母親や看護師のようになっていったといわれる。サンドはショパンの音楽的才能と優雅な振る舞いに、ショパンはおそらくサンドの勝ち気でありつつも母性的で自分に献身的に尽くしてくれる姿に惹かれたのだろうが、関係を始めて9年後の1947年に破局を迎える。

2つのデスハンドは、左側がジョルジュ・サンド、右側がショパン。中央はサンドの直筆の原稿


ショパンは別れのあとの精神的な不安定さと病をおして音楽家としての活動を続け、英国などでの演奏旅行も成功させるが、1849年に力尽きてこの世を去った。彼の最期に立ち会ったのは「私の腕の中で看取ってあげる」と言っていたジョルジュ・サンドではなく、彼女の娘のソランジュとその夫の彫刻家オーギュスト・クレサンジェ、ショパンの姉のルドヴィカ、数人の友人と神父だった。


いまこのロマン派美術館には、直筆の原稿や遺髪、身につけていたアクセサリーなどジョルジュ・サンドの遺品が数多く展示されている。そしてその中には、クレサンジェがショパンの死後に型をとったデスハンドが、1876年に亡くなったサンドのそれと一緒におさめられている。ショパンは左手、サンドが右手というのは偶然なのだろうが、どこか互いの手を求めているように見えて胸が痛む。

ロマン派美術館の庭園にはサロン・ド・テがあって訪問者の人気を集める


ロマン派の時代、自分の感情に素直に生き、それを作品に表現しようとした芸術家たち。彼らはこの街に集まり、互いの夢を語りあい、時に恋愛をし、切磋琢磨しながら、感性を生き生きと表現する新しい時代を切り拓こうとしていた。そんなパリの歴史の一面を感じながら、この美術館の空気を愉しんでほしい。




ロマン派美術館 Musée de la Vie Romantique

16 Rue Chaptal, 75009 Paris


公式ウェブサイト

https://museevieromantique.paris.fr




(文)杉浦岳史/パリ在住ライター
コピーライターとして広告界で携わりながら新境地を求めて渡仏。パリでアートマネジメント、美術史を学ぶ高等専門学校IESA現代アート部門を修了。2013年よりArt Bridge Paris – Tokyo を主宰。広告、アートの分野におけるライター、アドバイザーなどとして活動中。パリ文化見聞録ポッドキャストラジオ「パリトレ」始めました。

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