19世紀にイタリアの貴族がパリ16区に建てた美しい館「ガリエラ宮」。いまはパリ市立モード美術館が入るこの建物が、2年間の改装を経て10月1日にリニューアルオープンした。これにあわせて始まった展覧会のテーマは、フランスモード界の象徴ともいえる「シャネル」。といっても、シャネルブランドのファッションやアイテムを並べた展示ではなく、そのスタイルを一から創りあげた伝説のクチュリエール「ガブリエル・シャネル」その人にスポットをあてた。ブランドの新作コレクションは毎年見られるが、その創始者シャネルの回顧展がパリで開催されるのは意外にも史上初のことだという。
展覧会のタイトルは『Gabrielle Chanel. Manifesto de Mode』(ガブリエル・シャネル モードのマニフェスト)。20世紀はじめ、それまでの女性らしさ、女性の生き方とはまったく違ったスタイルを自ら実践し、時には戦士のように、自由かつ軽快で、そして強い意志を秘めた「新しいエレガンス」をファッションを通じて提唱しつづけた人。1971年にホテルリッツの寝室で亡くなるまで87年の生涯をかけたその創造の軌跡が、約350点の「作品」によって語られている。
展示は、シャネルが作ったこのシンプルな黒い帽子から始まる。
今でこそ特別には見えないこの帽子だが、当時コルセットでお腹を締め上げ、ふくらんだひらひらのスカートや飾り立てた帽子をつけるのがまだ主流だった上流階級の女性たちにとっては、驚くほど新鮮だった。シャネルは、そんな旧態依然な女性たちの生き方とその身のこなしの不自由さに反発を抱くと同時に、自分はもっと自由に生きたいと、男性の服のシルエットに憧れ、恋人であった資産家バルサンのシャツやコートを颯爽と着て、さらにはそれに合う帽子を作った。
「ダンディズム」をまとった彼女のシンプルでシックなスタイルは、たちまち周囲の女性たちの注目を集め、帽子の注文が来るようになり、1909年にパリ・マルゼルブ通りのアパルトマンにシャネルは最初の帽子店を開く。そしてすぐ翌年には当時から上級階級の社交場だったホテルリッツのすぐ裏手、いまのシャネル本社があるカンボン通りに移転し「シャネル・モード」の店名をつけた。フランス中部の町ムーランで「ココ」と呼ばれ親しまれる歌手だった彼女が一気に登りつめた階段。ガブリエル・シャネルはこのとき27歳だった。
帽子店が繁盛するなか、英国人大尉でポロの選手だったカペルと出会ったシャネルは、ヨーロッパの貴族や政治家、エリートたちが集まっていたフランス北部ノルマンディー地方の避暑地ドーヴィルとパリを行き来するようになる。「ここに店を開いたらどうか」というカペルの手助けも得て、シャネルは1912年、ドーヴィルに新しいブティックをオープン。そして1915年には南西部の避暑地ビアリッツにも進出。いよいよ洋服も手がけるようになる。
そこでシャネルが目を付けたのが上の写真のようなジャージー生地だった。ジャージーとはニット生地のことで、日本ではメリヤス編みとも呼ばれるが、それまでは男性の下着、あるいは漁師たちや乗馬を愉しむ男性などのコスチュームに使用されていた。シャネルはそれを初めて女性のファッションとして商品化し、ドレスに仕立てたのだった。
ちょうど1914年に第一次世界大戦が勃発して、ふつうの服生地が不足していたこともあった。ビアリッツなどの避暑地は、戦禍から逃れた裕福な人々などにとって疎開の場所になり、逆に都会のパリでは戦場に行く男たちに代わって女性たちが暮らしを支え、動きやすい服を求めるようになった。ふくよかであるより、細く軽やかな女性像がトレンドになり、その結果、機能的で無駄がなく、しかもエレガントなシャネルの服が飛ぶように売れたというわけだ。それは古い時代が終わり、次のモードが生まれようとする瞬間。シャネルは女性たちのスタイルに新しいビジョンを提示した、といっていいだろう。
生地はもちろんのこと、シャネルはカットやシルエットにも徹底的にこだわり、従来の常識を破って、洋服の形から女性たちを解放した。身体の自然なラインに添うように、あるいはその動きに合わせてしなやかなムーブメントを描くように。展示された作品をよく見ると、そのために細やかなカットやフリンジ、さらには後世のオートクチュールで定番となる微細な刺繍などを採り入れ、職人のクラフトマンシップによって丁寧に手をかけて仕立てられていることがわかる。それまで喪服でしかなかった黒の生地を、「黒はすべての色に勝る」とモードに変えたのも彼女だった。
「ドレスを作るのは素材であって、そこに添えられた装飾品ではない」
シャネル自身が語った言葉に、その精神が表れているかのようだ。
今回の展覧会場には、シャネルの香水の代名詞「No.5」の小部屋もある。シャネルは、何か特定の花などに依らないような、まったく新しいミステリアスな香りを求めた。依頼されたのはフランス南部の香水の町グラースにいた調香師エルネスト・ボー。彼はイランイラン、ジャスミン、バラ、ムスクのほか、アルデヒドなど化学合成品も初めて香水に使い、80種類以上の材料を調合。10個の試作品番号がふられた香りを作ってシャネルに提案。彼女は「No.5」と書かれた香水を即座に選んだという。
こうして1921年に登場した香水「No.5」は、香りも革命的ならそのボトルのデザインも画期的だった。装飾がついた小瓶が主流だった時代に、直線的で透明なフォルム。香りのイメージも何も語らない「No.5」の名前。そして文字だけのミニマリストなグラフィック・・・。装飾をすべて削ぎ落とした究極のデザインが、時代を超えて愛されるアイコンになっていったことは誰もが知る通りだ。
第一次世界大戦が終わった1920年代以降、シャネルはバレエのディアギレフや音楽家のストラヴィンスキー、ピカソ、コクトーなどの芸術家たち、あるいは多くの実業家や貴族などと交遊を持つ。さらには英国王室のエドワード8世やウェストミンスター公などとも恋仲になり、名声と注目を一手に引き受けることになった。本店を現在のカンボン通り31番地に移し、次々とメゾンを拡張していくなか、あの有名なガラス張りの階段からは、洗練された数々のコレクションが発表されていったのだった。
その後、一度は変化する流行に立ち後れ、さらに第二次世界大戦が始まるとシャネルは会社を閉鎖。大戦中にナチス・ドイツに加担したこともあり、戦後はスイスに居を移すなど苦境にさらされるのだが、70歳を過ぎた1954年に彼女は不死鳥のごとくモード界に復帰した。
シャネルがモード界を離れているあいだ、1947年にクリスチャン・ディオールが「ニュールック」を発表したのを皮切りに、男性クチュリエたちの攻勢が始まっていた。腰を締め、肩を張った、女性たちを型にはめるようなクラシカルなスタイル。かつて女性の軽快さと自由を表明したシャネルの「マニフェスト」とは相容れないものだった。復帰した彼女は「シャネル・スーツ」と呼ばれるようになるツイードをはじめとした軽やかな素材のアンサンブルを発表。デビュー時のコンセプトを貫きつつ進化させた「エレガンス」を新しいシルエットで世に打ち出したのだった。
ガリエラ宮の半円形の回廊の地下には、今回のリニューアルで曲線の展示室が作られ、このシャネル・スーツの変遷をずらりと見ることができる。
このほかにも、1955年に生みだされ、世界のあこがれになったバッグ「2.55」。不朽の定番としていまも人気を誇るスリングバックシューズ。さらにはシャネルが生んだとされるコスチュームジュエリー、フランス語で「ビジュ・ファンテジ」と呼ばれる宝石を使わないアクセサリーなどまでが一堂に。シャネルがこの世に送り出したコレクションの数々が、ここモード美術館、装飾芸術美術館、そしてシャネルのアーカイブをはじめとする世界各所から集められた。
「シャネルの私生活についてはたくさんの本があるけれど、彼女のプロフェショナルとしてのキャリアについて私たちはよく知らない」
このリニューアルをきっかけにモード美術館の館長に就任したミレン・アルサリュスはこう語る。確かに、私たちはシャネルが重ねた数々の恋や、繰り出される言葉のことは話題にしても、彼女が何を生み出したかについて無頓着だったかもしれない。シャネルの原点とは何だったのか。そのシンプルさとエレガンスの本質とは。なぜそれが現代まで輝きつづけているのか・・・。展示された作品を見ていると、それはまさにガブリエル・シャネルという人そのものであり、時代に反発した野心的な彼女のファッションや生き方自体に当時の女性たちが魅了され、モードを大きく変える原動力になったのだということがわかる。そして何よりもそのスタイルが、今も色褪せることなく新鮮に映ることが驚きだ。
2021年はシャネル没後50年。社会が大きく変わろうとするこの時代に、自分の生き方を貫いたシャネルの「マニフェスト」はいまだ有効なのかもしれないと思えてくる。
GABRIELLE CHANEL – MANIFESTO DE MODE
ガブリエル・シャネル モードのマニフェスト
会場:Palais Galliera – Musée de la Mode de la Ville de Paris
ガリエラ宮 パリ市立モード美術館
10 Avenue Pierre-1er-de-Serbie 75116 Paris, FRANCE
会期:2021年3月14日まで
開館時間:10:00〜18:00(木・金は21:00まで)
休館日:月曜日、12月25日、1月1日
料金:一般14€
公式ウェブサイト(英):https://www.palaisgalliera.paris.fr/en
(文・写真)
杉浦岳史/ライター、アートオーガナイザー
コピーライターとして広告界で携わりながら新境地を求めて渡仏。パリでアートマネジメント、美術史を学ぶ高等専門学校IESA現代アート部門を修了。ギャラリーでの勤務経験を経て、2013年より Art Bridge Paris – Tokyo を主宰。広告、アートの分野におけるライター、アドバイザーなどとして活動中。