超高音域のメロディを華やかな歌声で彩るコロラトゥーラ・ソプラノ歌手、田中彩子さん。ウィーンを拠点に、各国でコンサートに出演し世界を魅了し続けています。そんな田中さんの第4回目となる寄稿コラムは、オーストリアの初夏を季節の花、エルダーフラワーをめぐるお話です。
―過去の記事―
ウィーン、時を味わう美しき暮らし
短い夏、長い余韻-ウィーンの夏
5月の終わりから夏にかけて、ウィーンは1年の中でもっとも色鮮やかで美しい季節を迎えます。
長かった冬が終わり、灰色だった街は一斉に緑に包まれ、カラッとした太陽の光が街中に降り注ぎます。
この時期、とくに私が楽しみにしていることがあります。
森の小道や公園の片隅、住宅街を散歩していると、あちこちに小さな白い霞草のような花が咲き始めます。
オーストリアの初夏を代表する植物、「エルダー(Holunder)」です。
近づくと、甘く優しい香りの中に、爽やかな生命力を感じる清々しさが漂います。緑の木々が白く彩られてくると「ああ、今年もこの季節が来たな」と心が弾みます。

初夏だけに咲くエルダーフラワー。わずか数週間しか楽しめないこの花は、人々が季節の訪れを感じる大切な存在であり、その香りを閉じ込めたシロップは、ウィーンの夏に欠かせない味わいです。
私はこの花が咲き始めると籠を持って森へ出かけます。朝露がまだ葉の上に残る時間帯に出かけるのが好きです。
鳥のさえずりを聞きながら木々の間を歩いていると、白く小さな花が光を受けて、浮かび上がるように咲いているのを見つけます。
ひとつひとつ丁寧に花を摘む時間は、忙しない日々の合間に訪れる、小さな贅沢でもあります。
エルダーはヨーロッパでは古くから「庶民の薬箱」と呼ばれてきた植物です。
風邪をひいた時に飲むハーブティーとして親しまれ、喉の痛みや夏風邪を和らげる働きがあると言われています。

留学して数年目の頃、風邪をひいて具合が悪いときに、オーストリア人のおばあさんから自宅で作ったエルダーフラワーシロップを頂きました。
夏風邪にとてもいいとのことで、炭酸水で割ると花の繊細な香りの奥に柑橘の爽やかさが広がり、ビタミンたっぷりの美味しい栄養ドリンクとなりました。
以来、私にとってエルダーフラワーシロップは、単なる季節の飲み物ではなく、ウィーンで育まれた暮らしの記憶そのものになりました。

作り方もとても簡単です。
摘みたての花と、レモンとオレンジの輪切りを、大きなボウルにお水と一緒に一晩漬け込みます。
翌朝、鍋にボウルの中身をガーゼで漉しながら絞り入れ、そこに砂糖を入れてゆっくりとかき混ぜながら煮込み、沸々と気泡が出始めたら火を止めます。透明だった液体はほんのり黄金色に染まり、まるで初夏の陽射しを閉じ込めたような美しいシロップの出来上がりです。
オーストリアの家庭では、このシロップを一年分作って保存する人も少なくありません。
炭酸水で割れば爽やかな夏の飲み物になり、シャンパンに加えると華やかなアペリティフになります。
パンナコッタやヨーグルトにかけたり、スポンジケーキに染み込ませたり、近年ではシロップを使ったカクテル「ヒューゴ(Hugo)」も人気です。
花が咲いている期間はほんの数週間。
だからこそ、毎年この短い季節を逃さないように花を摘み、瓶の中に閉じ込めておきたくなるのかもしれません。
歌うことも、季節を味わうことも、その瞬間にしかない美しさを大切にするということ。
エルダーフラワーシロップを作る時間は、私にとってそんなことを思い出させてくれる、ウィーンの初夏の大切な年中行事になっています。

田中 彩子さん
18 歳で単身ウィーンに留学。 22 歳でスイスベルン州立歌劇場にて同劇場日本人初、且つ
最年少でのソリスト・デビューを飾る。
その後ウィーンをはじめロンドン、パリ、ブエノス・アイレス等世界で活躍の場を広げている。
ソプラノの中でもさらに高い音域のコロラトゥーラは透き通るような歌声が特徴 で「天使
の声」と称され、その歌声を操る数少ない一人。
2019 年 Newsweek 誌 「世界が尊敬する日本人 100」 に選出。アルゼンチン最優秀初演賞
受賞。イギリス BBC ミュージック・マガジンにて 5 つ星を受賞。
ブエノス・アイレスのムジカ・クラシカマガジンの表紙を飾る。
広島 AICJ 中学・高等学校理事長。ウィーン・東京在住。
【公演情報】
田中彩子ソプラノ・リサイタル2026≪夜と夢~オペラとシューベルト~≫
2026年9月~11月開催














