超高音域のメロディを華やかな歌声で彩るコロラトゥーラ・ソプラノ歌手、田中彩子さん。ウィーンを拠点に、各国でコンサートに出演し世界を魅了し続けています。今回は、田中さんが暮らすウィーンから、コラムをご寄稿いただきました。
ウィーン——それは過去と現在が美しく交差し、特別な魔法が宿る街です。
その歴史を紐解けば、ハプスブルク帝国の華やかな時代に遡ります。この時代、ウィーンは音楽、芸術、そして食文化がヨーロッパ中から集まる一大中心地として栄え、その輝きは唯一無二のものでした。そしてその名残は、今も街の隅々で感じることができます。
このコラムでは、18歳からウィーンに住んできた私自身が感じた、この街特有の優雅な文化や美しい暮らし、そしてお気に入りの場所についてご紹介します。
ウィーンと言えば、「音楽の都」というイメージを思い浮かべる方が多いかもしれません。音楽家や音楽愛好家にとって、ウィーンはまさに夢のような街です。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏が楽しめるウィーン楽友協会や国立オペラ座など、モーツァルトやベートーヴェンをはじめ、数々の巨匠たちが活躍した歴史ある場所が今も息づいています。

しかし、この街の魅力はクラシック音楽だけではありません。ウィーンには、ゴシック、バロック、ネオゴシック、アール・ヌーヴォー(ユーゲントシュティール)、モダニズムといった多彩な建築様式が集結する、時を超えた美を纏った都市でもあります。
19世紀末、セセッション運動と言われるウィーン分離派の中心地として、オットー・ワーグナーやグスタフ・クリムトのような革新的なアーティストたちが活躍しました。ウィーン分離派の理念である「芸術と建築の自由」を体現し、その影響は20世紀のモダニズム建築にまで広がっています。

個人的には、この時代の音楽や芸術、建築物に特に興味を惹かれます。伝統を尊重しながらも、新しい時代を切り拓こうとする挑戦的なエネルギーは、音楽家としても忘れてはならない情熱を呼び覚ましてくれます。
そのエネルギーを体感できる場所として、私が特に好きなのはレオポルド美術館です。この美術館では、19世紀末から20世紀初頭にかけてのウィーン・モダンアートをじっくりと楽しむことができます。煌びやかなイメージが先行するウィーンですが、レオポルド美術館の展示を通して、深淵と栄光のせめぎ合いの中から生まれた新しい芸術の息吹を感じることができるでしょう。それは、ウィーンという街の奥深い歴史に触れる体験となるはずです。

ウィーンといえば、これだけは外せません。私の好きな場所、ユネスコの無形文化遺産にも登録されるほど、特別な歴史と伝統を誇るウィーンのカフェです。
実はウィーンは「甘いものの都」としても知られ、多くの有名なスイーツが誕生した地でもあります。ザッハトルテやアプフェルシュトゥルーデル(りんごの焼き菓子)が特に有名ですが、それだけではありません。カフェではたくさんのケーキだけでなく、温かいスイーツが楽しめるのも魅力の一つです。

私が好きな温かいスイーツの一つがトプフェンシュトゥルーデルです。甘いフレッシュチーズとレーズンを詰めた焼き菓子に、温かいバニラソースがたっぷりとかかったバージョンが好きです。また、アプリコットをたくさん使ったスイーツもおすすめです。ザッハトルテにもアプリコットジャムが使われているのですが、夏には新鮮なアプリコットを使ったお菓子が並びます。甘酸っぱい優しい味で、夏のお気に入りのスイーツの一つです。

ウィーンのカフェは、作家、音楽家、哲学者、政治家といった知識人たちが集う社交場として発展してきました。そこは単なる飲み物やスイーツを楽しむだけの場所ではなく、文化そのものを味わう空間なのです。
季節ごとに変わるケーキにウィーン伝統のコーヒー「メランジェ」を添え、カフェで心穏やかなひとときを過ごす。その時間は特別で、何にも代えがたいものです。一人で本や新聞を読みながら、あるいはただ考え事にふけりながら、カフェでは誰もが思い思いの時間を楽しむことができます。
ウィーンにいると、時間がとてもゆったりと流れているように感じます。それは、この街特有の空気感がもたらすものかもしれません。「優雅な街に忙しさは似合わない」そんな声が聞こえてくるかのように、ウィーンでは揺るぎない時が静かに刻まれています。その穏やかな流れに身を委ね、メランジェを片手に静かに物思いにふけるひととき。それこそが、ウィーンらしい豊かで美しい暮らしなのだと感じます。
そして、この時間の静寂は、自分自身の心の片隅にそっとしまっておきたいと思うのです。ウィーンの静かなひとときは、日常の中でふとよみがえり、心に豊かさと静けさをもたらしてくれる気がします。


田中 彩子
18歳で単身ウィーンに留学。 22歳でスイスベルン州立歌劇場にて同劇場日本人初、且つ最年少でのソリスト·デビューを飾る。
その後ウィーンをはじめロンドン、パリ、ブエノス・アイレス等世界で活躍の場を広げている。
ソプラノの中でもさらに高い音域のコロラトゥーラは透き通るような歌声が特徴 で「天使の声」と称され、その歌声を操る数少ない一人。
2019年 Newsweek誌 「世界が尊敬する日本人100」 に選出。アルゼンチン最優秀初演賞受賞。イギリスBBC ミュージック・マガジンにて5つ星を受賞。
ブエノスアイレスのムジカ・クラシカマガジンの表紙を飾る。
《彼女の声は素晴らしいアジリティと本物の叙情的な美しさを持っている》
– イギリス ミュージックウェブ・インターナショナル
《田中は華麗なる鋭敏さと透明さを誇る声だ》
– アメリカン・レコードガイド
広島AICJ中学・高等学校理事長。
ウィーン在住。
オフィシャルHP:https://www.ayakotanakaofficial.com/