パリの真ん中を流れるセーヌ川のほとり。ルーヴル美術館の前に広がるチュイルリー庭園の木々が色づいてくると、この街に秋の訪れを感じる。今年のフランスは夏の名残りのような暑さがしばらく続いていたけれど、もうすでに朝は10℃くらいまで冷え込むこともあって、人々の装いもだいぶ変化してきた。


そんな季節が移りゆくチュイルリー庭園の中にある「オランジュリー美術館」で、注目の展覧会が始まった。その主役は「アメデオ・モディリアーニ」。イタリア・トスカーナに生まれ、20世紀はじめのパリにやってきてその才能を開花させ、永遠に残るであろう美術史の1ページを飾った画家だ。


このモディリアーニのように、19世紀後半から20世紀初頭のパリには数多くの芸術家が集まり、パリの北にあるモンマルトル地区や南のモンパルナス地区を中心に輝かしい時代を築いた。そしてその傍らではこうした芸術家たちのオリジナリティあふれる新しい表現に感動し、その可能性を見いだし、売り込み、時には芸術家を励まし、資金援助をしながらサポートをした画商、ギャラリストの姿があった。
今回ご紹介するオランジュリー美術館の展覧会「アメデオ・モディリアーニ ~ 画家とその画商」は、まさにそのタイトル通り、芸術家モディリアーニと一人の画商の切っても切れない関係にフォーカスしている。その画商とは、今回のもう一人の主役「ポール・ギヨーム」だ。


パリ華やかなりし「エコール・ド・パリ」の時代、先見の明があってアートに通じ、洒落者だった「ポール・ギヨーム」の存在は美術史に大きな影響を与えた。そして実は、この展覧会の会場であるオランジュリー美術館の歴史にも大きく関係している。
オランジュリー美術館は当初、画家クロード・モネが国に作品を残すために制作を続けてきた全長91メートルにもおよぶ『睡蓮』の超大作を展示するために整備されたものだった。モネは友人であった政治家で元首相のジョルジュ・クレマンソーたっての願いもあって国に寄贈する作品に取りかかったのだが、それを納品する条件のひとつが「その作品だけを展示するスペースをパリに造り、自分の死後に展示すること」だった。
クレマンソーはその政治力を発揮して、さまざまな施設を提案するが、なかなかモネは首を縦に振らない。紆余曲折の末にようやく二人が合意したのが、もともとは庭園の温室(オランジュリー)として使っていたこの施設の改築案だった。1922年に作品は完成、1926年にモネが世を去ったあと数ヶ月ののちに公開された。

同じく20世紀の前半、ポール・ギヨームは画商としてパリを奔走していた。若い頃自動車修理工だった彼は、タイヤに使うゴムの原料とともにアフリカから送られてくる彫刻に魅せられ、それをモンマルトル地区にあった自身が働くガレージの窓辺に飾った。それを通りがかりに見つけたのが、当時のアートシーンを刺激し、若い芸術家たちに絶対的な信頼を得ていた詩人のギヨーム・アポリネールだった。
アフリカの原始美術に関心をもっていたアポリネールはポール・ギヨームと意気投合。同じく詩人のマックス・ジャコブも交え、ピカソやキリコ、ローランサン、そしてモディリアーニなどと知り合うことになる。そして1914年にポール・ギヨームはギャラリーを開き、アフリカやオセアニアの芸術とこうした仲間の芸術家たちの近代絵画の作品を同時に紹介。こうした異文化のインスピレーションが、フランスのアートシーンを革命的に変えていったのだった。

ポール・ギヨームは天才的な嗅覚で急速にアートビジネスを展開し、パリのアートシーンに大きな関心を持ったアメリカにまで進出。高級住宅街のアパルトマンに住み、上流階級の人々を招いて展示をするほどになった。ところが1934年に42歳の若さで急逝。「自身のコレクションで近代絵画の美術館をつくる」という夢は膨大な作品群とともに、残された妻のドメニカに受け継がれた。
その後、ドメニカが再婚した建築家でアートコレクターのジャン・ウォルターと集めた作品と合わせ「ジャン・ウォルターとポール・ギヨームコレクション」としてフランス政府へと売却され、最終的にオランジュリー美術館の所蔵に。1978年から84年にかけての美術館改修工事で地下に展示室が造られ、1階でモネが残した『睡蓮』のスペースを大きく変えることなく、現在に続く美術館の姿になった。
肖像画に独自のスタイルを築いた画家モディリアーニ。
イタリア出身のユダヤ人画家アメデオ・モディリアーニは、1906年にパリへと移り、前述の詩人マックス・ジャコブを通じてポール・ギヨームと出会った。ポール・ギヨームと同じようにモディリアーニもアフリカ美術に早くから関心を持ち、初めはそこから受けた影響が垣間見えるような彫刻をつくっていた。

その異国文化に少なからずインパクトとインスピレーションを与えられたモディリアーニは、それまで美術界になかった新しい彼の表現で絵画に取り組んだ。角張った細長いフォルム、瞳孔のあいた仮面のような目をもったモディリアーニスタイルがなぜ生まれたのかも、こうした経緯を考えてみるとその理由がわかる気がする。
1914年、ポール・ギヨームに出会ったモディリアーニは、翌年から1年ほどで4枚以上もの彼の肖像画を描いた。その最初の作品はオランジュリー美術館に所蔵されていて、ポール・ギヨームが二人の関係を重視していたことがわかる。

© RMN-Grand Palais (Musée de l’Orangerie) / Hervé Lewandowski
当時まだ23歳だったギヨームは、スーツ、手袋、ネクタイを身につけ、先見の明があるアヴァンギャルドなパイロットのように描かれていて「Novo Pilota (新しいパイロット)」と絵の上にタイトルが書かれている。商才があって、時代を牽引していける力を持ち、しかも関心やスタイルでも共感しあえるポール・ギヨームに、モディリアーニが向けていた希望や大きな期待が伝わってくるような作品だ。
ギヨームもまたモディリアーニの作品に衝撃を受け、彼を「繊細で神秘的な才能を持った魂」と評してサポートする。モンマルトル地区のラヴィニャン通りにアトリエを借りて与え、その作品をパリの芸術界や文壇に知らしめるのに大きな役割を果たした。
しかし、パリに来る前に一度結核を患っていたモディリアーニの身体は、再び病魔におかされはじめていた。お気に入りのモデルであったジャンヌとの結婚と妊娠、そして第一次世界大戦でパリがドイツ軍に爆撃を受け始めたこともあり、彼の二人目の画商となったレオポルド・ズボロフスキの導きで1918年に南仏へ。そこで南仏を中心に活動していた画家ポール・セザンヌと出会い、その影響もあって、作品は色の平面的な新しい段階へと進み、色づかいにも変化が現れる。こうした中でもポール・ギヨームとは良好な関係を保ち、以前と変わることなく作品の売買も続けていたという。



南仏での転地療養でも彼は健康を取り戻すことができず、結核の苦しさと不安から酒浸りになった。パリに帰ってからも肖像画を描いてはそれを売って酒や薬物を買い、貧困するという悪循環に陥り、最後は結核性髄膜炎で死亡。あまりの哀しみから、二人目の子供を妊娠していた妻のジャンヌも後を追って2日後に飛び降り自殺をするという悲劇が起きてしまった。それは1920年のこと。モディリアーニは35歳、ジャンヌはわずか21歳だった。
現存している作品はそれほど多くないモディリアーニ。オランジュリー美術館に所蔵されている5点の絵画のほか、実に100点以上ものキャンバス作品、約50点のデッサン、12点の彫刻がモディリアーニからポール・ギヨームに託されたといわれる。彼にとって、モディリアーニが常にお気に入りの大切な画家であったことは、ギヨームが引っ越しをするたびにピカソやマティス、セザンヌなどとともに、大事な場所をモディリアーニ作品が占めていたことからもわかる。

晩年の人生から、頽廃と悲劇の人というイメージで語られがちなモディリアーニだが、作品の穏やかさを見る限りそれは感じられない。酒と病の苦しみに荒れるほかは、きっとイタリア人気質の洒落者で繊細で優しい男だったに違いない。その運命を思うと、彼の肖像画たちも少し哀しみを帯びてみえるようだ。

展覧会「Amedeo Modigliani. Un peintre et son marchand」
(アメデオ・モディリアーニ、画家とその画商」
会場:オランジュリー美術館 Musée de l’Orangerie
Jardin des Tuileries, 75001,Paris, FRANCE
会期:2024年1月15日(月)まで
9:00〜18:00(火曜日定休、金曜日は21:00まで)
美術館ウェブサイト(英語)
https://www.musee-orangerie.fr/en
※記載情報は変更される場合があります。最新情報は美術館ホームページをご覧ください。