パリのモンパルナス地区。いまは巨大ターミナル駅として人々で賑わうこのエリアも、20世紀の前半にはパリを代表する芸術家の街として世界に知られた。フランス人はもちろんのこと、ヨーロッパ、アメリカ、そして日本からもパリに憧れた芸術家たちが「モンパルナス」に集結。アトリエを構え、「ル・ドーム」などのカフェに集まってワインを片手に交流を深め、華やかな文化を次から次へと生みだしていく、そんな特別な空気が漂っていた。


その中に、のちに世界的な彫刻家として知られるようになるアルベルト・ジャコメッティの姿があった。1901年スイスでイタリア系の家庭に生まれた彼は1922年にパリへと移り、ロダンの弟子だった彫刻家のアントワーヌ・ブールデルに師事。シュルレアリスムの芸術家として活動したが、第二次世界大戦後になって、いま世界的に知られるような細長い人物の彫刻やドローイングで高く評価されるようになった。





ジャコメッティの代名詞と言ってもいいそのスタイルは、どこか強く心に届く力を持っていて、見る人の視線を惹きつけて放さない。


そんなアルベルト・ジャコメッティの足跡をたどり、とりわけ彼が使っていたアトリエを忠実に再現したスペースでアートファンの人気を集めているのが、モンパルナス地区にある「アンスティチュ・ジャコメッティ」だ。1913年に建てられたアールデコ様式の邸宅を「ジャコメッティ財団」が保存・修復し、2018年に開館。彼を中心にした作品の展示、研究、教育を目的に運営されている。




アンスティチュ・ジャコメッティがあるヴィクトール・シュルシュ通り


ブランクーシやニキ・ド・サンファルといった多くの芸術家や、ジャコメッティとも交流のあったサルトルをはじめとする思想家、小説家、俳優も眠る「モンパルナス墓地」のすぐとなり。「アンスティチュ・ジャコメティ」はまずその建築が印象的だ。この建物の所有者だったフランス人のポール・フォロは家具デザイナーそして装飾家として知られたアールデコ様式の先駆者の一人で、この建物も自分と家族のための生活の場であると同時に、創作のためのアトリエ、そしてショールームとして設計したものだった。



建物入口横の扉はアール・デコ調の装飾が残されている



再現されたジャコメッティのアトリエ


建物を入るとすぐ、再現されたジャコメッティのアトリエが私たちの心を惹きつける。実際の彼のアトリエと家は、かつてこの「アンスティチュ・ジャコメッティ」から歩いて15分ほどのイポリット・マンドロン通り46番地にあった。彼はパリに来たあと1926年くらいから亡くなるまでの実に40年間をここで過ごしたという。


彼が1966年に亡くなると、長年連れ添った妻でありモデルでもあったアネット・ジャコメッティは、アトリエの壁やそこに残された彼の作品や遺品をすべてそのまま保存。それを後世に受け継ぐための努力を重ね、「ジャコメッティ財団」の礎を築いて1993年に世を去った。そして10年後の2003年に彼女の念願であった財団が設立され、芸術家の功績を伝えるための大きな一歩を記すことになった。




再構築されたアトリエは20㎡あまりととても狭く、ついアトリエの一部だけが表現されているのだろうと勘違いしてしまいそうだ。ちなみに2018年の映画『ジャコメッティ 最後の肖像』でかなり忠実に再現されたアトリエを見ることができるが、ロフトがあって天井は高いものの、制作スペースそのものは実際にこのスケールであることが確認できる。


生前から世に知られたジャコメッティだが、名声を得て作品が売れるようになっても終生このアトリエを離れることはなかった。一説には、この場所に自分の身を置くことも制作のプロセスの一部と彼が考えていたとも言われる。




ジャコメッティが構想を描いたデッサンが残った壁、彼が実際に使った絵筆、絵具、彫刻用のこて、壊れた眼鏡、亡くなった時に未完成のまま残された作品、彼のインスピレーションの源のひとつだったエジプトの彫刻などもある。まるでそこに本人がいても不思議ではないような空気感。場所が違うとはいえ、この光景からあの人間の存在そのものを問いかけるような作品が生まれていったのかと想像すると、とても感慨深いものがある。





さらに建物を中へ入っていくと、アール・ヌーヴォー様式の植物模様や、アール・デコ調のタイルなどが活かされた空間にジャコメッティの作品が並ぶ。現在は、この施設の創設に貢献した妻・アネットにフォーカスし、彼女をモデルにして作られたジャコメッティ作品など展示した展覧会『Annette en plus Infiniment』がここで開催されている。



若き日のアネット・アーム(ジャコメッティ)


1943年、アルベルト・ジャコメッティが42歳、アネットが20歳のときに彼らはジュネーブで出会った。第二次世界大戦後にジャコメッティがパリに戻ったあとの1946年に二人は同居を始め、1949年に入籍する。恋多きジャコメッティが自分の母に「彼女は私が一緒に暮らせる唯一の女性であり、私が仕事に没頭できるようにしてくれる女性です」と手紙に書いた運命の相手だった。


順風満帆に見える二人の関係は、主にこのアネットが支えていたと言っていいかもしれない。彼女は携わっていた秘書の仕事を辞めてモデルとしての役割に専念するものの、要求が厳しいジャコメッティのモデルを務めるのは容易なことではなかったという。




冬は寒く、小さく雑然としたアトリエで、暮らしを顧みることなく制作に没頭し、モデルには何時間、何日でも従順であることを求めるジャコメッティ。しかも自由恋愛派の二人は、それぞれが愛人を持つことを表面上は容認していたというが、実際の感情はどうだっただろう。ジャコメッティの晩年を描いた先述の映画の中でも、奔放に娼婦とつきあい、車さえ買い与える夫に対し、アネットは嫉妬を隠さない。彼女のほうも、二人の友人でジャコメッティの重要なモデルも務めた日本の哲学者・美術評論家の矢内原伊作に心を寄せるが、「嫉妬という感覚や所有欲は自由への攻撃だ」と公言するジャコメッティに、妻の複雑な感情が伝わっていたかどうか。




それでも、こと芸術を追求するということに関して、二人の関係は絶対的なものだったといえる。いわゆるポートレート以外では、ジャコメッティにとってアネットがほぼ唯一のモデル、そしてヌードモデルは彼女だけ。アネットはジャコメッティにとっての完全なる「ミューズ」であり、芸術人生のかけがえのない一部だった。彼女がジャコメッティの死後、時間をかけてすべての作品のリストを作り、贋作や盗作を許さなかったのも、自分がその一部であった芸術家としてのジャコメッティへの忠誠心だったのかもしれない。




もうすぐジャコメッティに向けるパリの愛情はさらに深まることになる。2026年に完成予定の「ジャコメッティ美術館」だ。場所は、パリ万国博覧会のために1900年に建設された旧アンヴァリッド駅の建物。1万点を超えるといわれるジャコメッティ財団のコレクションにふさわしいミュゼがようやく誕生する。ジャコメッティとアネットの二人も、パリの空の上からその日を待ちわびているに違いない。




Institut Giacometti アンスティチュ・ジャコメッティ

5 Rue Victor Schoelcher, 75014 Paris

公式ウェブサイト https://www.fondation-giacometti.fr/en



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