パリの中心に、ひっそりと佇む美しいアートスポットがある。その名は「カストディア財団」。ここは厳密には「美術館」ではなく、パリのガイドブックなどにもまず登場しない。しかし一年に数回のペースで企画展が開催されていて、そのクオリティの高さと展示空間の美しさで、パリのアートファンたちに密かな愉しみを提供している。


パリ五輪へ向け、屋外の彫像たちも綺麗になってきたコンコルド広場



フランス国民議会議事堂となっているブルボン宮


「カストディア財団」のある場所は、コンコルド広場からセーヌ川を渡った先にあるフランス国民議会の議事堂・ブルボン宮のすぐ近く。省庁をはじめとする国の行政機関や企業、昔ながらの邸宅が並んだシックなエリアだ。印象派をはじめとする近代アートで有名なオルセー美術館も目と鼻の先だが、そこからここまで足を伸ばす観光客は稀だろう。


カストディア財団入口


1743年に建てられた瀟洒な建築「トゥルゴー邸」を受け継ぎ、美術史家でアートコレクターのオランダ人フリッツ・ルグトとその妻が1947年に設立したのがこの「カストディア財団」。「カストディア」とはラテン語で「保管庫」を意味するそうだが、その名の通り夫婦が時間をかけて収集してきたアートコレクションが保管されている。そして邸宅の最上階にあるのは、美術史の研究に人生を捧げてきたルグト氏が集めた蔵書を中心に13万点もの資料を収めた図書館。フランスでも最も重要な美術史専門の施設のひとつとして、研究者などに門戸をひらいている。




カストディア財団 「ヤコブス・フレル展」展示室入口



そんな知る人ぞ知るアートスポットで、興味深いイベントがこれまた密やかに開催されている。17世紀オランダ絵画の黄金時代と呼ばれる時代の画家「Jacobus Vrel ヤコブス・フレル」の展覧会だ。1630年頃の生まれと推測されているので、世界的に有名なヨハネス・フェルメールの2歳ほど年上ということになるが、実は生年はもちろんのこと生まれた街すら定かではない。




フェルメールは生前に高い評価を得たのち、200年ほど美術史の中で忘れ去られた存在であったことがよく知られているが、ヤコブス・フレルはそれ以上に知る人が少なく、近年まで本格的な調査・研究も進んでいなかった。

この画家の謎を解明するために、国際調査プロジェクトが実施されたのは2018年のこと。画家の生没地や生涯の活動に関する情報には新発見がなかったが、描かれた木製パネルの年代測定などから、それまでフェルメールの「追随者」だと思われていたのが、むしろ「先駆者」であったことがわかってきたという。

では、ヤコブス・フレルの実際の作品を観てみよう。


ヤコブス・フレル《窓辺で子供に挨拶する女性》Jacobus Vrel Femme saluant un enfant à la fenêtre, Paris, Fondation Custodia, Collection Frits Lugt, inv. 174


家の中で一人たたずむ女性。画面全体に広がる瞑想的な静寂と光の効果。まるで写真のように切り取られた一瞬。窓に浮かび上がる子供の顔のどこか謎めいた表情・・・。フェルメールの作品をよく知る現代の私たちから見ればその違いは明らかだ。しかし「J.V.」のイニシャルが同じだったことと相まって、かつてフェルメール(Johannes Vermeer)の作品と勘違いされていた時期があったというのもわからなくはない。


ヤコブス・フレル《窓辺の女性》Jacobus Vrel Femme à la fenêtre, daté 1654 Vienne, Kunsthistorisches Museum, inv. GG 6081 © KHM-Museumsverband


このヤコブス・フレルの手によるものとされている現存作品は世界でわずか約45点。このカストディア財団ではそのうち実に9点の絵画と素描を所蔵している。さらに今回の展覧会には『真珠の首飾りの少女』を所蔵していることで知られるオランダの街デン・ハーグのマウリッツハイス美術館や、ドイツの街ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク美術館などから集められた作品を迎え、22点のフレル作品とその関連作品がここに展示されている。


ヤコブス・フレル《読書する女性、窓の外の少年》Vieille femme à sa lecture, un garçonnet derrière la vitre, The Orsay Collection


ヤコブス・フレルが絵の中に入れる画家としてのサインも、謎が謎を呼ぶひとつの理由だろう。たとえば上記のこの作品のサインが書かれているのは、読書をする女性の足もとの床に落ちた紙切れの上。ほかにも絵に描かれた家具の上や、街の中の壁やベンチなど、絵にさりげなく溶け込むように仕込まれている。しかも「フレル」の綴りを「Vrel」「Veerlle」など作品によってさまざまに書き分けたり、単に「JV」とだけ記したり、さらには筆致を変えたりと、かなり手が込んでいるのも特徴だ。わざとなのか気まぐれなのか、研究者や鑑定者の憶測や好奇心を刺激する「なぞなぞ」のような仕掛けが散りばめられているのがなんとも興味深い。


展示室にはヤコブス・フレルの作品に記されたさまざまなサインが記されている。


ヤコブス・フレル《賑わう通りの風景》Jacobus Vrel Scène de rue animée, Munich, Bayerische Staatsgemäldesammlungen, Alte Pinakothek, inv. 16502


ヤコブス・フレルが描く街並みにも、やはり謎めいたところが見られる。一見すると彼が生きた17世紀のオランダの都市生活を垣間見るようだが、その建築様式などをもとに場所を特定することは難しく、おそらく実在の風景を再構成して描かれたのだろうとされる。歴史的に重要な出来事があったわけではない景色を主題に選ぶのは、この時代のオランダ絵画に特徴的なスタイルのひとつで、彼はその先駆者の一人だったとも言えそうだ。この傾向はヤン・ファン・デル・ヘイデンなど、後の画家たちに受け継がれていくことになる。


ヤコブス・フレルと同じ時代の画家ピーテル・ヤンセン・エリンガらの作品



展覧会にはヤコブス・フレルと同時代または後につづく画家たちの作品も数多く展示されているが、フェルメールも含めこうした室内を描いた「風俗画」のジャンルがオランダで流行していたことを物語る。

この17世紀前半から後半にかけての時代は、キリスト教プロテスタントが北ヨーロッパを中心に浸透し、特にオランダのカルヴァン派では教会に宗教画を飾ることすら禁じられたという背景がある。それまで主体だった宗教画の代わりに、歴史画や肖像画、人々の暮らしを描いた風俗画、都市や自然の風景画、静物画など、さまざまなジャンルの専門分野に特化した作品が発展。オランダ絵画の黄金時代と呼ばれ、次の時代の潮流に影響を与え、絵画の可能性を広げていくような表現を生みだしていった。

ヤコブス・フレルとフェルメールが互いを知っていたか、あるいは影響を与えたかどうかは定かでない。しかし、こうした歴史的な背景の中で育まれた潮流だと考えると、さらにそれぞれの作品の理解にも深みが増しそうだ。

今回の展覧会で観客に配られる説明用の小冊子もここカストディア財団らしくシックにまとめられている。パリ中心部の密かな、そして奥深く充実したアートスポット。次回の旅でぜひ訪れてほしい。


カストディア財団 Cutodia Fondation

121, rue de Lille, 75007 Paris

展覧会「ヤコブス・フレル フェルメールの謎の先駆者」

2023年9月17日まで開催

月曜日を除く毎日開館(12時〜18時)

ウェブサイト

https://www.fondationcustodia.fr/English (英語サイト)

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