「こんな画家が日本にいたなんて」。そんな驚きを感じさせる展覧会が上野の東京都美術館で開催されている。画家の名は「田中一村」(たなか・いっそん)。大胆な構図に鮮やかな色彩、巧みなデッサンと繊細なタッチ。澄んだ光が照らす静かな自然の風景に、強い生命力を宿す動植物の生き生きとした存在感。世界を見渡してもほかに見たことのない、唯一無二の作品たちがずらりと並ぶ。
今から100年あまり前の明治41年(1908)に生まれ、昭和52年(1977)に奄美大島にて69歳で亡くなった田中一村。彼は作品だけでなく画家としても唯一無二の人生を送った。生まれた栃木から5歳で東京へ移り、彫刻師だった父から書画(書と絵画がひとつになった作品)を学ぶと、「米邨」(べいそん)という画家としての名を得て活動を始める。
展覧会には、数え年で8歳の頃に描いたという《菊図》などが展示されているが、その筆づかいはすでに子どものものとは思えない。ちなみにこの《菊図》の紙の左側が破れているのは、父が彼の作品に筆を入れてしまったことが気に入らず、その部分を破り取ったのだという。子どもながらの作品への自信と負けん気の強さが感じられるエピソードだ。
「神童」と称された若き画家・米邨は、ストレートで東京美術学校(現・東京藝術大学)の日本画科に入学。しかし「家事都合」を理由にわずか2ヶ月で退学してしまう。彼は中国絵画に影響を受けて山水画などを描く、いわゆる「南画」の新鋭画家として、大学のアカデミックな画壇からは離れた場で身を立てる。そして独学で試行錯誤の上に新たな画風を打ち立てると、この《椿図屏風》が描かれた昭和初期には、強い筆致と美しく鮮やかな色を加えた米邨独自のスタイルが確立されていく。
新たな境地へ向かって自分の殻を破り、「南画」の様式からも一変した画風で羽ばたこうとする、強い意思にあふれた作品だとはいえないだろうか。
ところが母と弟を立て続けに亡くし、27歳のときには彼を創作の道へと導いた父も帰らぬ人となる。そして30歳になった昭和13年(1938)に、祖母や姉、妹とともに親戚を頼って千葉市千葉寺町へ移った。
まだ農村の風景が広がっていたこの街で、彼は畑で農作業をし、内職をしながら絵を描いていた。展覧会の第2章「千葉時代」では、展覧会への出品作とは違った身近な小景画、木彫、仏画、季節の掛物など、目に見える相手に向けて丁寧に作られた作品も展示。地域でのつながりや支えをもとに、静かに、しかし着実に「絵で生きる」暮らしを育んだ彼の姿を映しだす。
そして戦後の昭和22年(1947)には、米邨から「柳一村」と画号を改め、青龍展という公募展にこの《白い花》を出品、初入選を果たす。新たな手ごたえを得た一村は、屋敷の障壁画一式を任されるなどする中で、「花鳥画」に新たな自分の世界を拓いていく。今回の展覧会には、1955年(昭和30年)頃に石川県で開苑した「やわらぎの郷」に滞在して描いた聖徳太子の天井画の一部が、特別に出品されている。このまたとない機会を逃さず見ておきたい。
しかし、40代を過ぎてからの日展、院展など公募展への出品はすべて落選するなど、公の画壇での理解は得られなかった。失意のなかで彼は新天地を求め、九州や四国、紀州を巡る旅へと出かけ、旅を支援した人々に宛てて風景画の色紙を贈った。そして鮮やかな自然の色、生き生きとした植物たちに魅了された一村は、ついに昭和33年(1958)12月、当時日本最南端にあった奄美大島に向かうことになった。
残された家族だった姉の喜美子とも別れ、単身で奄美大島に渡った50歳の田中一村。経済的な苦境は変わらず、一度は千葉に戻るも、昭和36年(1961)には決意を新たに奄美行きを敢行する。絵画に専念する時間をつくるため、紬(つむぎ)工場で染色工として働き、十分な制作費を貯めてから絵画に取り組むという計画を立て、切り詰めた生活を実践した。そして5年間勤めた工場を辞めると、昭和42年(1967)から3年間、彼は自分のために、想いのすべてを込めた制作に没頭した。
世間に知られることもなく、画壇での成功とは無縁であっても、ただひたすらに自分が目指す絵画の境地を追いかけ、全身全霊をかけて取り組んだ田中一村。何にも迎合しなかったがゆえの独創性、極彩色の風景と動植物たちのあふれんばかりの生命力が彼の筆を通して伝わってくる。
田村一村は66歳になる昭和49年(1974)の書簡に、自身の「大作二枚」について「閻魔大王えの土産品」と記した。その二枚が上の《アダンの海辺》《不喰芋と蘇鐵》であることは間違いないだろうとされている。長年の苦難と試行錯誤を経て辿りついた、迫力のある構図と繊細なタッチのコントラスト、絶妙な色彩・・・。あえて別の画家にたとえるなら、晩年のアンリ・ルソーが《夢》や《蛇使いの女》で到達したような、現実を超える力を帯びた絵画世界がそこに広がっていた。展覧会では14年ぶりにこの2点が揃って展示される。
田中一村は69歳になる昭和52年(1977)9月、夕食の支度中に心不全で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。そのわずか2年後の昭和54年(1979)、彼を悼む有志による遺作展が開催され、異例の3千人もの動員を記録。昭和59年(1984)にはNHK「日曜美術館」の特集で大きな注目を集め、彼が生前に得たことのなかった評価を受けることとなったのだった。
東京藝術大学に入学したときには、のちに日本画壇屈指の画家となる東山魁夷らが同級だった。2ヶ月で退学した田中一村は、独学で自らの絵を模索するまったく違う運命を歩むことになるが、その彼も「最後は東京で個展を開いて、絵の決着をつけたい」と語っていたという。
奇しくも彼が退学を決意した大正15年(1926)の5月に東京藝術大学の隣りに開館したここ東京都美術館(当時の東京府美術館)。今回の個展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が、天国にいる彼の想いに決着をつけるものであってほしいと願うばかりだ。それほどの力強さが、この展覧会には存在する。
展覧会「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」
会場:東京都美術館 企画展示室(東京・上野)
会期:2024年12月1日(日)まで
開室時間:9:30〜17:30、金曜日は9:30〜20:00(入室は閉室の30分前まで)
休室日:月曜日、11月5日(火)※ただし11月4日(月・休)は開室
詳しくは展覧会公式サイトへ
※記載情報は変更される場合があります。
また、会期中に一部作品展示入れ替えがございます。
最新情報は展覧会公式サイトをご覧ください。