東京・上野の東京都美術館で始まった「マティス展」が注目を集めている。20世紀の美術界に大きな変革をもたらしたフランスの画家アンリ・マティスの、日本では約20年ぶりとなる大回顧展。なにしろ世界最大規模のマティスコレクションを誇るパリのポンピドゥー・センターから、名作《豪奢、静寂、逸楽》をふくめ約150点の作品がこの展覧会のために来日しているのだ。アートファンならずともこの機会を逃す手はない。


「巨匠」と名高いマティスだが、人によって、あるいは作品によっては「どこがいいの?」「この絵は上手なの?」という反応もあるかもしれない。そのまま美術館を訪れても、もちろんマティス独特の色彩やデッサンの魅力は感じられるだろうが、その前に少しだけマティス作品を観る「コツ」を知っておくとさらに感じ方に深みが増すのではないかと思う。



アンリ・マティス《マグノリアのある静物》 1941年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館 Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


アンリ・マティスは今から150年ほど前の1869年に生まれ、20世紀に入る頃に母国フランスをはじめ美術界で注目を集めるようになった。1954年に84歳で亡くなるまでの生涯を通じた彼の創作活動は、私たち人間の感覚に直接訴えかけるような「色」と「光」そして「線」と「形」への飽くなき探求に特徴づけられる。


父が望んだ法律家への道をマティスが捨てて、画家になろうと決心したのは20代になった頃。虫垂炎で入院した病室の隣人がたまたま画家で、絵の楽しさを教えてくれ、母も画材をマティスに贈って後押しした。彼はのちに「それは楽園の発見だった。そこでの私は完全に自由で、一人で、安らかで、自信に満ちていた」(美術評論家ピエール・クールティヨンとの会話)と語っている。一生をかけた芸術家としての旅がここから始まった。


すでにフランスでは印象派を中心にしたアヴァンギャルドな画家たちが、それまでのアカデミックな絵画様式を打ち壊していた。彼は、エコール・デ・ボザール(パリ国立美術学校)で教鞭をとっていた画家ギュスターヴ・モローのアトリエに入る。モローはそれぞれの学生たちの内面を表現する手法と自由な創造性を尊重した教えで知られ、マティスも自分らしい絵画のスタイルを探求しはじめた。



アンリ・マティス 《読書する女性》 1895年 油彩/板 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


展覧会の1章「フォーヴィスムに向かって」では、まだやや写実的で色彩も抑えられた初期の作品《読書する女性》(1895)や自画像を見ることができ、このあとに現れる作風との違いを知るうえでとても興味深い。



アンリ・マティス 《豪奢、静寂、逸楽》 1904年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館 Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


彼に最初の大きな転換期が訪れる。新印象主義のシニャックやゴッホの影響を受けて生まれたというこの《豪奢、静寂、逸楽》(1904)は、マティスが「色」という言語を自身のスタイルの探求に使うきっかけとなった代表的な作品だ。


ここで彼は「筆触分割」という原理にトライ。色を混ぜずに点描し、その鮮やかさを活かして光に満ちた理想郷のような風景を描いた。このあとマティスはこのタッチを荒々しく変えていき、1905年の「サロン・ドートンヌ」というパリの展覧会をヴラマンク、ドラン、ドンゲンなどの画家とともに大胆な色彩と筆致で圧倒。「野獣の檻の中にいるようだ」と展覧会を批判した評論家の言葉から彼らが「フォーヴィスム(野獣派)」と呼ばれるようになったのは有名な話だ。



アンリ・マティス 《豪奢I》 1907年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


この頃に現れた彼のもう一つの特徴が、平面的で装飾的な画面構成。ルネサンス以降続いてきた遠近法から離れて、背景と人物が同じ次元でフラットに表現され、色も面的に描かれる。マティスは自分が目指す芸術について「良い肘掛け椅子のような」あるいは「色を通した歓び」を広めたい、と語っていたという。現実の色をリアルに表現するというより、自分の好きな色、人の心や感覚を突き動かす色彩そのものを画面に置きたかったのかもしれない。彼がやがて「色彩の魔術師」と呼ばれる原点がここにある。



アンリ・マティス 《アルジェリアの女性》 1909年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館 Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


そして1914年の出来事がマティスをまたも変えていく。それはヨーロッパを巻き込み、深い傷跡を残した第一次世界大戦。二人の息子や友人らが戦地に向かうなか、すでに45歳だったマティスは一人残される。この状況に抵抗するかのように、彼は転機となるような革新的な造形の実験を進めた。



アンリ・マティス 《コリウールのフランス窓》 1914年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館 Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


《コリウールのフランス窓》は地中海沿岸の街コリウールでこの頃に描かれた作品だ。本来なら西洋絵画で内と外をつなぐ役割を担う「窓」が、まるで私たち鑑賞者の視線を拒むように黒く塗りつぶされたミステリアスな表現。一方、マティスが長女マルグリットを描いた肖像画《白とバラ色の頭部》には、ピカソやブラックが進めた「キュビスム」の強い影響が見てとれる。



アンリ・マティス 《白とバラ色の頭部》 1914年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館 Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


アンリ・マティス 《金魚鉢のある室内》 1914年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館 Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


セーヌ川を臨む窓のあるアトリエ空間を描いたのが《金魚鉢のある室内》。トーンを変えた美しい青による平面的な構成で統一された画面の真ん中にはこの前の年に滞在したモロッコでの思い出の金魚鉢がおかれる。周囲の色が金魚鉢に溶け込んだような独自の小宇宙が創られ、内と外の空間をつなぐ役割をしているのがわかるだろうか。


そして展覧会3章の部屋に進むと、大きな彫刻が並んでいる。マティスは絵画とともに彫刻作品も並行的に手がけてきたが、その多くは彼の表現スタイルの転換期に現れてきた。下の《背中I-IV》で興味深いのは、これら4点が1909年から1930年にかけて順番に20年以上の月日をかけて創られたこと。それぞれの制作時期は、彼の代表作である《ダンス》などモニュメンタルな絵画の制作時期と関わっていることが指摘される。彼自身、自分の考えを整理するために彫刻を創るのだと語っていて、絵画と彫刻を行き来することで造形の表現を模索していたことがわかる。



アンリ・マティス 《背中I‒IV》 1909‒1930年 ブロンズ ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


1920年代になるとマティスは南仏のニースに居を構え、古典的な絵画の表現に回帰していく。ドラクロワなど先人たちが描いてきた異国趣味の歴史にも連なる、イスラムのスルタンに仕える女性「オダリスク」を描いた最初の作品《赤いキュロットのオダリスク》にもその傾向が見られる。



アンリ・マティス 《赤いキュロットのオダリスク》 1921年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館 Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


モデル以上に存在感の強い装飾の描き方がマティスらしい。彼はフランス人のモデルをイスラムの女性に扮装させ、アトリエをまるでミニチュア劇場のように飾り付けて制作をした。それは過去の巨匠たちが単なるモチーフや図像として「オダリスク」を描いたのと違い、人物と空間を絵画的な緊張感のなかに配するという彼の探求に欠かせないものだったという。


この作品が置かれた展覧会の4章では、この時期に描かれたドローイングの数々も紹介されている。「線画は私の感動の最も純粋な翻訳である」と語ったマティスのドローイングにかける想い、そして生き生きとした彼のまなざしをそこから感じてみたい。


マティスの1930年代は、アメリカやタヒチへの旅で幕をあけた。すでにアメリカでも名声を得ていた彼はMOMAで回顧展を開催。のちに記念碑的な作品となるバーンズ財団の《ダンス》を約3年かけて作り上げる。その間の1932年には、ロシア出身の若きリディア・デレクトルスカヤをアシスタントとしてアトリエに迎えた。彼女はマティスの特別なモデルとして、1954年の画家の死までその傍らにいることになる。



アンリ・マティス 《夢》 1935年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


《夢》はそんな彼女を描いた一枚。安らかに眠る彼女の上半身を画面全体に配置した大らかな構図に、充ち足りた様子が表現される。絵画の中に人物のフォルムを挿入する方法について、無数のヴァリエーションを描きながら追求を続けたマティスが辿り着いた境地といえるだろう。



アンリ・マティス 《赤の大きな室内》 1948年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館 Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


しかし1939年に第二次世界大戦が勃発。70歳のマティスは病を得てフランスに留まらざるを得なくなり、療養を続けつつ、ニースからその山あいの美しい村であるヴァンスに居を移す。ベッドと車椅子を行き来するような生活になっても彼はドローイングや本の挿絵などの創作に没頭。そして筆を持ってキャンバスに向かうことが難しくなると、筆をハサミに持ち替えて「切り紙絵」に取り組むようになる。


実は、色と線、形をありよう絵画で探究してきたマティスにとって、色彩とその境界を描くデッサンの線の対立関係は長い間の悩みだったという。「ハサミで描く」切り紙絵はそれを解消する手段として、彼にとって重要なものになっていく。



アンリ・マティス 《イカロス(版画シリーズ〈ジャズ〉より)》 1947年 ポショワール/アルシュ・ヴェラン紙 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館 Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle


展覧会では、グワッシュで彩色された鮮やかな切り紙絵による書籍『ジャズ』や、絵画空間に人間の形態をどのように配するかという問いの終着点ともいえる大画面の切り紙絵などが展示される。まさにジャズのように即興的に、色そのものを切って造形していく行為。色と形のありようとその関係性をずっと探究してきたマティスにとって、それはとても幸せな時間だったのではないだろうか。


そして展覧会エピローグの8章では、アンリ・マティスのこうした探究の旅の集大成ともいえる「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」を紹介する。彼は79歳になる1948年から1951年にかけて、この礼拝堂の建築、装飾、家具、オブジェ、典礼用の衣装まで総合的にプロデュース。ドローイング、彫刻、切り紙絵などあらゆる方法を駆使して、光と色と線が融合する空間を目指した。



ロザリオ礼拝堂 堂内 ©NHK


そこは南仏の陽射しに包まれた中の、静けさに満ちた空間。マティスはこの礼拝堂内部で午前11時頃に差し込む光、そして移ろいゆく光の造形を愛したという。1952年の完成に際して彼は「私はこの礼拝堂をひたすら自分を徹底的に表現しようという気持ちで創りました。ここで私は形と色からなる一個の全体性として自分を表現する機会を得たのです」と語った。


20歳で、描くことの楽しさと安らぎを知ってしまった彼が、60年以上にわたる創作の旅を通じて追い求めてきた世界。その想いを知ったあとで作品を眺めてみると、一本一本の線がいとおしく思えてくる。



アンリ・マティス(1922年、マン・レイ撮影) © Man Ray Trust / Adagp, Paris Photo © Centre Pompidou, MNAMCCI/Dist.RMN-GP



マティス展


会場:東京都美術館 企画展示室(東京・上野公園)

会期:2023年8月20日(日)まで

休室日:月曜日、7月18日(火)※ただし7月17日(月・祝)、8月14日(月)は開室

開室時間:9:30〜17:30(毎週金曜日は20:00まで)※入室は閉室の30分前まで

※日時指定予約制(無料対象の高校生以下も含みます)


入館料・チケット予約その他の情報は展覧会HPへ

https://matisse2023.exhibit.jp/

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