これを見て「どこかで見たことある!」と思った人は少なくないだろう。「キース・ヘリング!」と名前まで出てくる人もかなりの数ではないだろうか。
そうだとしたらキース・ヘリングの想いは世界に通じていることになる。なにしろ彼はアートを「すべての人のために」と願ったアーティストだからだ。
彼はアンディ・ウォーホルやジャン=ミシェル・バスキアと共にニューヨークのカルチャーシーンを牽引した1980年代を象徴するアーティスト。彼の描く、シンプルでありながらどこか私たちの心に響く強さをもった人間像は、誰もが知る「アイコン」として彼が亡くなって30年以上経った今も世界中で愛されている。
だがそんな彼の「アート」に対する想い、そして生前にHIV・エイズ予防啓発や子どもたちの福祉に捧げてきた社会活動への彼の貢献はどれほど知られているだろうか。そして時間の経過とともに、それは少しずつ忘れられているようにも思える。
そんななか東京・六本木ヒルズの「森アーツセンターギャラリー」では「キース・ヘリング展 アートをストリートへ」を開催。6メートルにおよぶ大型作品を含んだ約150点もの作品を集め、ヘリングのアートとそこに込められた想い、彼の闘いの軌跡をたどる。
違いを超えて、誰もがアートを楽しめるように。
キース・ヘリングは、1958年にアメリカ北東部のペンシルベニア州に生まれた。1978年、20歳になった彼はニューヨークに移り、スクール・オブ・ビジュアル・アーツに入学。絵画だけではなく、映像やインスタレーションなど多彩な美術表現を学びつつ、美術館や画廊といった従来の展示空間ではなく、公共の空間でアートを広めていくという挑戦を始めた。そして彼が選んだのが、人種や階級、性別、職業に関係なく多くの人が利用する地下鉄の駅構内。空いた広告板に張られた黒い紙にチョークで描く「サブウェイ・ドローイング」で、彼は狙い通りに注目を集めることになる。
この絵に描かれた、持ち上げられる猿のような動物、あるいは光り輝く赤ん坊、吠える犬など、ヘリングの有名なキャラクターはここから生まれていった。ピッツバーグという田舎からやってきた彼にとってのニューヨークは、混沌と希望にあふれる刺激的な街。しかし、この時代には早くもHIVの蔓延がこの巨大都市に暗い影を落とし始めていた。自らもゲイであったキース・ヘリングは、生の喜びと死への恐怖を背負いながら、創作へとのめり込んでいった。
シルクスクリーンで作られたこの作品は、フランシス・ベーコンやジャン=ミシェル・バスキアの展覧会を手がけたトニー・シャフラジ・ギャラリーから1983年に出版された版画シリーズのもの。この作品には蛍光インクが使われ、ブラックライトで照らすと光を放つ。画面上部で輝く赤ん坊や子どもを宿した女性たちの躍動感あふれるダンスの動きは、生命の尊さ、母親たちの強さを讃えているようだ。
多発する犯罪、ドラッグや暴力、貧困の蔓延など、不況下で混沌とする80年代のニューヨーク。それでもクラブ・シーンは盛り上がり、ストリートアートが隆盛を極め、その危ういバランスがアーティストたちの心を街に惹きつけていた。ウォーホルやバスキアの作品も、こうした環境から生まれていった。
ヘリングもまた、伝説的なDJのラリー・レヴァンが活躍したパラダイス・ガラージなどに出入りし、踊りや音楽に酔いしれ、創作のインスピレーションを得ていた。こうして彼は、ポップアートだけでなく、舞台芸術や広告、音楽などと関わりながら制作の場を広げていくことになる。
この『スウィート・サタデー・ナイト』のための舞台セットは、黒人歴史月間にニューヨークの芸術劇場ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージックで行われたダンス・パフォーマンスの舞台背景として制作された巨大な作品だ。横幅6メートルを超える大画面いっぱいに黒い線で描かれたダンサーたち。この絵を背に、ほんとうのダンサーたちがブレイクダンスを繰り広げていたのを想像すると、この時代のクラブの空気が伝わってくるようだ。
1986年に発表されたアンディ・ウォーホルとの貴重なコラボレーションである《アンディ・マウス》も興味深い。ヘリングが幼少期から影響を受けていたミッキーマウスとアンディ・ウォーホルが融合したキャラクターには、商業印刷から導入されたシルクスクリーンの技法を応用。ウォーホルの銀髪がシルバーグレーなどの豊かな色彩で再現されているのが特徴だ。
キース・ヘリングがアートを通じて伝えたかったこと。
キース・ヘリングはこうしたポップアートの最先端を歩みながら、核放棄、反アパルトヘイト、HIV・エイズ予防や性的マイノリティの問題などを取り上げ、そのメッセージを伝えるために「ポスター」という媒体を選んだ。地下鉄の構内を選んだときと同じく、それは大衆へダイレクトに思いを伝えるための手段だった。
1982年に初めて制作したポスターは核放棄のためのもので、なんと自費で2万部を印刷。セントラル・パークで行われた核兵器と軍拡競争に反対する大規模デモで無料配布された。
またこの作品は社会の無関心さを告発するため1989年に制作されたもの。タイトルの《沈黙は死》の言葉は、エイズ予防啓発運動団体ACT UPが製作したポスターから引用された。中央の三角形は、ナチスの強制収容所で同性愛者の男性につけられたピンクの逆三角形のバッジがモチーフになっていて、それを逆さにすることで彼は同性愛差別に対する抵抗を表現した。そこには「LGBTQ+」コミュニティの意志の強さや、偏見で命を落とした人々への追悼への想いが感じられる。
アートの力は人の心を動かし、世界を平和にできるもの、と信じていたキース・ヘリング。彼はポスターだけではなく、子どもたちとのワークショップや壁画、自身がデザインした商品を販売するポップショップなど、多くの媒体を使って世界にメッセージを送り続けた。
このポスターは、1988年にニューヨーク公共図書館の依頼で識字率の向上のために制作されたものだ。「楽しさで頭をいっぱいにしよう!本を読もう!」のメッセージ、そしてポップで楽しいキャラクターのつまった頭脳で、字を覚え、本を読むことの意義を伝えた。
多様な人種が集まる坩堝(るつぼ)のようなニューヨークでは、英語のコミュニケーションができず、生きることに困難を生じていた人々が多くいた。そうした社会のあり方をポジティブでわかりやすいビジュアルとメッセージで変えていこうとするところにキース・ヘリングらしさがある。彼は明らかに、コンセプトとアートを結びつけることのできる直感的な素質があった。
しかしこの頃、彼はすでに病魔に冒されていた。1988年にエイズと診断されてもなお彼はひるむことなく、翌年にはキース・ヘリング財団を設立。最後の最後まで制作活動と社会課題への問いかけを続け、アメリカ国内やヨーロッパなどを展覧会やペインティングのために訪れたという。そして1990年2月、ニューヨーク・グリニッジヴィレッジのアパートで31歳の若さでこの世を去ってしまった。
版画シリーズ《イコンズ》に登場する光り輝く赤ん坊(ラディアント・ベイビー)はヘリングのトレード・マークのひとつ。彼は赤ん坊こそが人間の完璧な姿で、社会の色に染まらず純粋無垢で、未来への希望の象徴であると考えていたという。死の間際まで描き続けたというこのイコンに、愛するこの世界が未来に向かって少しでも夢のあるものになって欲しいという願いを込めていたのかもしれない。
展覧会では、彼が日本を訪れた時の様子、ほかにもさまざまな作品から彼の功績を描き出す。Tシャツやグッズだけではない、彼のアートのほんとうのパワーとその意志をぜひ生で感じてみたい。
キース・ヘリング展 アートをストリートへ
会場:森アーツセンターギャラリー
会期:2024年12月9日(土)〜2024年2月25日(日)会期中無休
開館時間:10:00〜19:00、金曜日と土曜日は20:00まで
年末年始(12月31日〜1月3日)は11:00〜18:00
※最終入館は閉館の30分前まで
入館料・チケット予約その他の情報は展覧会公式サイトへ
※記載情報は変更される場合があります。最新情報は展覧会公式サイトをご覧ください。
すべて 中村キース・ヘリング美術館蔵 All Keith Haring Artwork ©Keith Haring Foundation