時計を100年ちょっと巻き戻して、19世紀の終わりから20世紀の入口にかけての時代にさかのぼってみよう。フランスをはじめとするヨーロッパで印象派やキュビスム、表現主義など、絵画の表現を大きく変えるアーティストたちが生まれていた頃、北欧では絵画の歴史に名を刻むある一人の画家が静かに自分のスタイルを貫いていた。

静まりかえった室内、開け放たれた扉、整えられた家具、後ろ向きの女性、そこに差し込む柔らかな光・・・。暮らしのなにげない瞬間を描いているようだけれど、そこには何か漠然とした違和感も漂う・・・。

ヴィルヘルム・ハマスホイ 《室内》 1898年 スウェーデン国立美術館蔵 Nationalmuseum, Stockholm / Photo: Nationalmuseum

その名は、ヴィルヘルム・ハマスホイ。19世紀のデンマークを代表する画家。近年になって欧米で再評価が始まり、2008年には日本で初の展覧会が開催。この時代の西洋絵画の一般的なイメージとは異なる透徹なまでの「静寂」の描写は大きな反響を呼んだ。そのハマスホイを当時のデンマーク絵画とともに紹介する展覧会「ハマスホイと19世紀デンマーク絵画」が上野の東京都美術館で開催中だ。

19世紀前半にその黄金期と呼ばれる時代を迎えたデンマーク絵画。19世紀の後半には多くの画家たちが、近代化で失われつつあった古き良きデンマークの姿を求めて郊外や地方に出向く。たどりついたのは、スケーインという海辺の漁師町。独特の景観に芸術家たちが集まってコロニーを形成し、印象派の光の描写を取り入れながら、スケーイン派と呼ばれるスタイルを生みだした。

ピーザ・スィヴェリーン・クロイア 《スケーイン南海岸の夏の夕べ、アナ・アンガとマリーイ・クロイア》 1893年  ヒアシュプロング・コレクション蔵 © The Hirschsprung Collection

また19世紀末のコペンハーゲンでは、画家が自身の家族をモデルに、家庭生活の親密さや、ささやかな幸福を描いた室内画が人気を得た。そこにはいま日本をはじめ世界でも注目されている、デンマーク人が大切にする価値観「hygge ヒュゲ(くつろいだ、心地よい雰囲気の意)」の原型も見て取れる。

ピーダ・イルステズ 《ピアノに向かう少女》 1897年 アロス・オーフース美術館蔵 ARoS Aarhus Kunstmuseum / © Photo: Ole Hein Pedersen

デンマーク絵画を生んだこうした土壌やヨーロッパ絵画の流れに育まれたハマスホイではあったが、彼が生みだした作品は完全に一線を画していた。そのスタイルはどこから生まれたのだろうか。

フランスでロートレックが生誕したのと同じ1864年、ハマスホイはデンマークの首都コペンハーゲンで生まれた。彼はデンマークの王立美術アカデミーに学び、1885年に妹アナの肖像画でデビュー。初期には肖像画や風景画を描いていたが、1890年代以降、室内画を多く描くようになった。

ヴィルヘルム・ハマスホイ 《寝室》 1896年 ユーテボリ美術館蔵 Gothenburg Museum of Art, Sweden 🄫 Photo: Hossein Sehatlou

この作品は、1891年に彼が画家仲間であるピーダ・イルステズの妹イーダと結婚した新婚旅行で訪れたパリで描かれたもの。この後、妻のイーダは室内画のモデルとして、ハマスホイの作品にとって欠かせない存在となっていく。

そして1898年に移り住んだコペンハーゲンの旧市街、ストランゲーゼ30番地のアパートメントはたびたび彼の主題となり、ここからいくつもの名作が生まれていった。

彼が描いたのは、多くがこの自宅の居間や寝室だった。全体としてモノトーンで、生活の痕跡は慎重に消し去られ、ひたすらに静かな景色からは音のする気配さえも感じられない。17世紀オランダの風俗画の影響も認められ、“北欧のフェルメール”とも呼ばれるハマスホイだが、フェルメールのように生活の一瞬を切り取ったというより、もはや時間は止まってしまっているかのようだ。そしてその考えぬかれた視点と構図、光の表現は、この時代に大きな発展を遂げつつあった写真表現の未来を暗示するかのようでもある。

ヴィルヘルム・ハマスホイ 《背を向けた若い女性のいる室内》 1903-04年 ラナス美術館蔵 © Photo: Randers Kunstmuseum

ヴィルヘルム・ハマスホイ 《農場の家屋、レスネス》 1900年 デーヴィズ・コレクション蔵 The David Collection, Copenhagen

そんな独特の作風はデンマーク国内で評価されただけでなく、ドイツの詩人リルケやバレエを総合芸術として高めたバレエ・リュスで知られるディアギレフをも魅了したといわれる。1911年にはオーストリアの画家クリムトとともにローマ国際美術展で第一等を受賞。デンマーク王立美術院の総会会員に就任するなど、画壇での名声をものにするのだが、1916年、51歳の若さで世を去ってしまう。逝去後は時代遅れの画家と見なされ、忘れられてしまうものの、近年になって欧米の主要な美術館が作品をコレクションに加えるなど、世界的な評価が高まりつつある。

ヴィルヘルム・ハマスホイ 《室内―開いた扉、ストランゲーゼ30番地》 1905年 デーヴィズ・コレクション蔵 The David Collection, Copenhagen

なにより作品を見ていて感じるのは、その謎めいた雰囲気だ。この静寂はどこから来るのか。後ろ姿の女性はその向こうでどんな表情をしているのか。扉の先には何があるのか・・・。そこで起きる物語を知りたくなるような感覚。しかし画家は我々のこうした思いとは裏腹に、作品の解釈の手がかりを排除している。むしろ空間やオブジェなど対象の形を美しく描くことに心を注いだという。

一見、モノトーンの色調に支配されているように見えるが、ディテールまで細かく目を凝らすと黄、紫、赤などの多彩な絵具の集積がそれを構成していることがわかる。こうした丁寧で繊細な作品に浮かび上がるのは、もしかしたら何かの存在でなく「不在」だったといえるだろうか。当時、コペンハーゲンに限らずヨーロッパの都市は、近代化が急激に進み、周囲の風景も人々の意識も大きく変化していた。そんな首都の片隅の部屋で、ハマスホイは古いアパートの室内空間に積み重ねられてきた時間と、失われつつある何かを同時に感じとっていたのかもしれない。

それは懐かしい記憶への郷愁か、新しい時代への不安か、それとも・・・。彼の繊細な感性がとらえたものが何か。それを感じるには彼の作品から約40点が集まったこの展覧会に足を運ぶのが良さそうだ。


「ハマスホイとデンマーク絵画」

会期:2020年1月21日(火)〜3月26日(木)

休室日:月曜日、2月25日(火)ただし2月24日、3月23日は開室

開室時間:9:30〜17:30 金曜日、2月19日、3月18日は9:30〜20:00(入室は閉室の30分前まで)

場所:東京都美術館 企画展示室

観覧料:当日券一般1,600円ほか

ウェブサイト:https://artexhibition.jp/denmark2020/

2020年4月7日(火)〜6月7日(日)山口県立美術館に巡回

(文・杉浦岳史)

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