ロンドン・ナショナル・ギャラリーは、バッキンガム宮殿やビッグ・ベンが並ぶロンドン中心部のシンボル、トラファルガー広場に面した世界屈指の美の殿堂。年約600万人を超える来場者は、世界の美術館・博物館でもトップ10に入る。

この美術館、実はこれまでまとまった数の作品を貸し出すことに慎重で、1824年に設立されてから200年近くのあいだ、館外で大規模な所蔵作品展が行われたことが一度もないという。フェルメール、ゴッホ、レンブラントらの傑作をふくむ全61点が英国から海を渡り、日本にやってきて一挙に公開されている今回の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」は、まさに史上初の歴史的な展覧会ということになる。


ロンドン・ナショナル・ギャラリー外観 photo: Phil Sayer, ©The National Gallery, London


パリのルーヴル美術館やマドリッドのプラド美術館などヨーロッパの多くの美術館とは違い、王室の収集した作品を受け継いだのではなく、市民の力で市民のために創られたナショナル・ギャラリー。美術収集家や歴代の館長などの尽力で時をかけて築き上げられたコレクションは約2,300点におよぶ。13世紀後半から20世紀初頭まで、英国はもちろん、ヨーロッパ絵画の移り変わりを網羅していて、その内容と質の高さは「西洋絵画の教科書」とも呼ばれるほどだ。

今回はこの展覧会のいくつかの名作を通じて、そんな西洋絵画の歴史を旅してみることにしよう。作品にどんな意味が込められ、人間の考え方が時とともにどう変わってきたのか、あるいは今と変わらないものは何か。ちょっとしたヒントがあれば、展覧会は数倍も興味深いものになるはずだ。


イタリア・ルネサンス絵画の収集

最初はイタリア・ルネサンスの名品たち。新しい美術の原動力になったこの時代のフィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア絵画はナショナル・ギャラリー開館以来の重要なコレクションとされる。ルネサンスといえば、一般的にダ・ヴィンチやミケランジェロなどの巨匠が知られるが、15世紀以前の初期ルネサンス絵画にも優れた作品が多い。


カルロ・クリヴェッリ 《聖エミディウスを伴う受胎告知》 1486年 卵テンペラ・油彩・カンヴァス 207×146.7cm ©The National Gallery, London. Presented by Lord Taunton, 1864


こちらはイタリアのマルケ地方で活躍した画家クリヴェッリによる1486年の作品《聖エミディウスを伴う受胎告知》。「受胎告知」は、西洋絵画の題材としてたびたび取り上げられているキリスト教のエピソードのひとつで、大天使ガブリエルが聖母マリアのもとにやってきて神の子を身ごもりましたよ、と奇跡を知らせるシーン。通常は「受胎告知」には大天使ガブリエルとマリアだけが登場しているものだが、この作品では建物の中にいるマリアのもとに行こうとする色鮮やかな羽の大天使ガブリエルが、聖エミディウスというこの街の守護聖人を伴っている。

そもそもキリスト誕生の時代でなくルネサンス期の街が舞台という設定も、当時は斬新だっただろう。絵の下のほうには「リベルタス・エクレジアスティカ」(教皇から街に与えられた自治権)と書いてある。この自治権を得た日が「受胎告知」の祝日と同じ日であったことから、街の記念日をキリスト教の祝日に重ねて表現しているのだという。教会に支配されず一定の自治権を獲得した街の誇りが現れているようだ。

こうしたリアルな人間社会の風景と宗教の物語を重ねて描くのはルネサンス以降の特徴で、この頃から本格的になった遠近法もこのクリヴェッリでは巧みに活かされている。眺めているとまるで中に引きこまれてしまいそうな構図の強さがある。


ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 《ノリ・メ・タンゲレ》 1514年頃 油彩・カンヴァス 110.5×91.9cm ©The National Gallery, London. Bequeathed by Samuel Rogers, 1856


こちらの作品は上のクリヴェッリの少しあとの時代で、ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノによる《ノリ・メ・タンゲレ》(我に触れるな)。これもキリスト教の逸話で、ゴルゴタの丘で磔刑に処せられたあと復活したキリストが、マグダラのマリアに、まだ父なる神のもとに行っていないから自分に触れてはならないと諭している場面。ティツィアーノのこうした抒情豊かな風景描写や優れた色彩表現、あらゆる絵画スタイルへの探求心は、近代絵画にまで至る後世の画家に大きな影響を残した。西洋美術史に欠かすことのできない芸術家の一人だ。



オランダ絵画の黄金時代

ナショナル・ギャラリーがルネサンス期と同じように多く収集したのが17世紀のオランダ絵画だった。この時代に交易や商業で繁栄したオランダの文化は、19世紀にそのあとを追って海洋帝国としての栄華を極めたイギリスにとって親しみやすかったらしい。

その代表といえるのは、やはりフェルメールだろう。ナショナル・ギャラリーは、30数点とされる極めて少ないフェルメールの現存作品のうち2点を所有しているが、今回そのひとつ《ヴァージナルの前に座る若い女性》が来日した。


ヨハネス・フェルメール 《ヴァージナルの前に座る若い女性》 1670-72年頃 油彩・カンヴァス 51.5×45.5cm ©The National Gallery, London. Salting Bequest, 1910


フェルメールらしい、日常の一瞬を切り取ったようなシーン。美しくしつらえられた室内で、裕福そうな女性が絹の服を着て、当時の鍵盤楽器であるヴァージナルに手をかけている。この家のオランダ商人の娘なのかと推測されるが、そう単純にいかないのがフェルメールの絵画。奥の壁には、フェルメール家が当時所有していて、今はボストン美術館にあるデュルク・ファン・バビューレンの絵画《取り持ち女》が映っている。この《取り持ち女》は、娼婦と客、その仲介役の3人が主人公なのだが、このことからこの青いドレスの女性も娼婦なのではないかともいわれ、いまだに議論の決着がついていない。


レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 《34歳の自画像》 1640年 油彩・カンヴァス 91×75cm ©The National Gallery, London. Bought, 1861


世界的に有名なレンブラントの《34歳の自画像》も日本に来た。生涯にわたり幾度となく自画像を描いたレンブラントだったが、実は17世紀のこの当時において、画家が自分の絵を描くのはかなり異例のことだった。彼はあえてそれを試み、しかも着ている服は当時から100年ほど前のルネサンス時代のもの。つまりレンブラントはコスプレをしていることになる。彼は先述したイタリアのティツィアーノやラファエロなど、過去の芸術家が手がけた肖像画から衣装やポーズを研究し、それを自分にあてはめて描くことで、自分が偉大な芸術家の系譜に連なる存在であると主張しているのだ。依頼人たちを納得させるために。



イタリアへのグランド・ツアー

ヴェネツィアの大運河(筆者撮影)


ルネサンス以降、ヨーロッパの芸術文化の中心地はイタリア、という時代が続いた。18世紀になると、イギリスでは上流階級の子息たちが見聞を広めるためヨーロッパを巡る「グランド・ツアー」が流行。その定番の行き先に選ばれたのがイタリアだった。中でも古代ヨーロッパの文明を生んだローマ、ルネサンスを育んだフィレンツェ、そしてこの頃には享楽の街として知られたヴェネツィアの三都市が特に選ばれたという。


カナレット(本名ジョヴァンニ・アントニオ・カナル) 《ヴェネツィア:大運河のレガッタ》 1735年頃 油彩・カンヴァス 117.2×186.7cm ©The National Gallery, London. Wynn Ellis Bequest, 1876


そんな「グランド・ツアー」に沸き立つヴェネツィアで都市景観図を確立させた画家がカナレットだった。この《ヴェネツィア:大運河のレガッタ》に描かれているのはカーニヴァルの時期に大運河で開催されたレガッタの競技会。英国人の憧れをくすぐるようなパノラミックな構図に、視線が収斂する先にはヴェネツィアの象徴「リアルト橋」が映る。カナレットは彼の作品を購入してくれたパトロンを頼ってやがて英国に移り、18世紀の都市風景画家たちに影響を与えていくことになる。



風景画とピクチャレスク

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 《ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス》 1829年 油彩・カンヴァス 132.5×203cm ©The National Gallery, London. Turner Bequest, 1856


風景画で知られた画家ターナーも、カナレットに影響を受けた一人。彼はカナレットとヴェネツィアに憧れて、この水の都を何度も訪れたという。いまでこそ風景画といえば英国美術の典型のように思われるが、昔はそうではなかった。それが、フランスのプッサンやロランの影響を受けたターナーが風景画や海景画を担うようになると、これが英国はもちろん国際的に評価されるようになる。その代表作といえるのが1829年に描かれたこの《ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス》だ。

ギリシャ神話の英雄オデュッセウスが巨人ポリュフェモスを倒し、仲間とともに出帆する場面。ターナーは、その物語のわかりやすい描写よりも、光や空の様子、自然現象に大きな関心を寄せ、朝焼けのドラマティックな風景を鮮烈な色彩で表現した。まるでこのおよそ数十年後に美術界を大きく変える印象派の出現を予言しているかのようだ。


フランス近代美術の受け入れ

19世紀頃までにヨーロッパ絵画の中心はフランスに移り、やがて印象派をはじめとする近代絵画の変革が起きる。英国ではその変化の受け入れにやや時間がかかり、20世紀に入ってようやく本格的な収集が始まったといわれる。その立役者は大富豪で美術コレクターのサミュエル・コートールド。彼は1920年頃に、この英国の国立美術館に印象派の作品がないのはおかしい、と自ら出資して国のコレクションに協力した。それによって所蔵された作品の一つがルノワールの《劇場にて(初めてのお出かけ)》だった。


ピエール=オーギュスト・ルノワール 《劇場にて(初めてのお出かけ)》 1876-77年 油彩・カンヴァス 65×49.5cm ©The National Gallery, London. Bought, Courtauld Fund, 1923


背景の客席を見てほしい。細部を緻密に描くのではなく、いくつも細かく筆を加え色を並べて置くことで、目の錯覚で像が結ばれ、ざわめきのような劇場のシーンが表現される・・・これぞ印象派、という独特のスタイルがこの絵はみてとれる。その違いは、ここまでの絵画と比べてみるとよくわかるはずだ。


ロンドンから初来日した、ゴッホの《ひまわり》

そして最後にご紹介するのは、ゴッホが亡くなる2年前に南仏アルルで描いた《ひまわり》。彼は生涯に7枚、花瓶に生けられたひまわりの絵を描いているが、その最初の4枚はゴッホがアルルに芸術家の共同体をつくることを夢みて、そこにポール・ゴーガンを迎えるために「友情の証」として描かれたものだった。黄色はゴッホにとって幸福の色で、画面をうねるような絵具からは、彼の熱意が見て取れる。

4枚のうち、ゴッホがゴーガンの寝室を飾るのにふさわしいと認めてサインしたのはわずか2枚。今回来日したのはそのうちの1枚だ。

ゴッホの思いもむなしく、迎えたゴーガンとの共同生活は約2ヶ月で崩壊。自らの耳を切り落とす事件を起こし、2年後には37歳の若さで命を落とすことになる。しかし、数々の名作を生みだしたのもこの最晩年のアルル滞在中だった。この熱意と狂気のはざまで生まれた作品を、ぜひ筆跡までじっくりと見てみたい。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《ひまわり》 1888年 油彩・カンヴァス 92.1×73cm ©The National Gallery, London. Bought, Courtauld Fund, 1924


今回の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」の全61点はすべてが初来日。ここまで紹介してきた作品以外にも、ゴヤ、ベラスケス、モネなど西洋絵画の歴史を代表する芸術家ばかりが揃い、そのクオリティも非常に高い。世界を旅することが難しい今この時期。バーチャルでは味わえない、本物の絵画体験をぜひ美術館で楽しんでほしい。

取材・文/杉浦岳史



ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

会場:国立西洋美術館(東京・上野公園)

会期:2020年10月18日(日)まで

開館時間:9:30〜17:30 毎週金・土曜日9:30〜21:00 ※入館は閉館の30分前まで

休館日:月曜日(ただし9月21日(月・祝)は開館)、9月23日

巡回:国立国際美術館(大阪・中之島)2020年11月3日(火・祝)〜2021年1月31日(日)

※本展は日時指定制です。会場でのチケット販売はありません。詳細は展覧会公式サイトをご確認ください。

https://artexhibition.jp/london2020/



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