芸術の都・パリ。今でもこの街はアートやデザインの宝庫であり世界中の人々を惹きつけている。しかし意外なことに、かつてのフランスはかならずしも世界の芸術を象徴する存在ではなかった。ルネサンス以降、ヨーロッパの芸術を牽引してきたのはお隣のイタリア。ヴェネチア、フィレンツェ、ローマなどを中心にした華やかな都市の発展に歩調を合わせるように、イタリアのアートシーンには次から次と新たな潮流と巨匠たちが生まれ、世界を魅了してきた。そしてフランスは長いあいだこのイタリアに憧れ、画家たちは留学し、そこで吸収したものを祖国に持ち帰って、新たなスタイルを生みだそうと模索を続けていた。
それが大きく変化したのは19世紀後半。ドラクロワやクールベ、マネなどがこじ開けようとした新しい絵画の扉は、印象派の誕生で大きく開き、「ベル・エポック」と呼ばれる時代に向けてパリは一躍、芸術の都として輝きはじめる。パリの街並みも都市改造で美しく進化し、ガスや電気が夜の街を明るく照らし出すようになると、その華やかさは世界を惹きつけた。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、まさにそんな時代の真っ只中に登場した。南フランスのアルビという街で伯爵家の息子として1864年に生まれた彼は、少年期の大腿骨の骨折が原因で下半身の成長が止まり、幼い頃から好きだった絵画に専念することになる。1882年にパリに出るとレオン・ボナの画学校で、そしてモンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画学校に移り、そのまま自身のアトリエを構え、その地に身を置くようになった。まさにキャバレやカフェが文化の製造装置になった世紀末のパリ。そこに生きる歌手や芸人、娼婦たちの姿をいきいきと描いたロートレックは、時の人となった。
彼の得意技は、素早く流麗に描かれるラインと日本の浮世絵などにも影響を受けたとされる大胆な構図。その魅力は特にドローイングに現れていた。そんなロートレックの「線」をフィーチャーした展覧会が、いま東京・新宿のSOMPO美術館で開催されている「フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線」だ。
ロートレックによる紙作品の個人コレクションでは世界最大級を誇るフィロス・コレクションが日本に初上陸。コレクションを代表する素描作品約45点をはじめ、約240点を紹介。そのほかにもポスターを中心とする版画作品、雑誌や書籍のための挿絵、ロートレックが家族や知人にあてた手紙まで、彼が描いたあらゆる「線」を見ることができる。
第1章の「素描」では、フィロス・コレクションの核心ともいえる素描作品を紹介。完成度の高いものから、紙片の両面に描かれた即興のスケッチ、なかにはポスターの下絵など、ロートレックの制作過程も垣間見ることができる。彼が多く残した版画と異なり、それはいわゆる「1点もの」の作品。ロートレックが自らの手で描いた「線」の数々から、物事を捉える彼の視線やそれを表現する巧みさを感じることができるはずだ。
これはほかでもない、ロートレックが自分の父を描いたもの。豊かなあごひげが特徴的だ。トゥールーズ=ロートレック伯爵家は、中世の十字軍の時代から続く旧家。ロートレックの父アルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック伯爵は、貴族らしく乗馬や狩猟を愛す一方で、仮装を趣味とする変わった人物でもあったという。少年時代のロートレックは、この父の影響もあって狩猟や馬を好んだという。即興なのに表情や性格までもがわかりそうな線に、彼の感性が伝わってくるようだ。
ロートレックといえば、ムーラン・ルージュ、テアトル・リーブル(自由劇場)など、キャバレやダンスホール、カフェ・コンセールのショーの世界を描いた作品が有名だ。展覧会ではイヴェット・ギルベール、アリステッド・ブリュアン、ジャヌ・アヴリルなど、ロートレックがモデルとして描いた芸人たちを取り上げる。
イヴェット・ギルベールは、19世紀末のパリを代表する歌手。細身の身体と肘腕が特徴でロートレックは何度も彼女の姿を描いたが、時にはその特徴を醜いほど誇張したため、本人からも不興を買うほどだったという。ロートレックはギルベールのための版画集の挿絵を担当したが、この作品はこのうちのひとつ。観客に挨拶をしているシーンを描いたものだ。
こちらも有名な《キャバレのアリステッド・ブリュアン》。このアリステッド・ブリュアンは歌手・作曲家で、彼のためにロートレックが制作したポスター。黒い上着、ツバ広の黒い帽子、赤いマフラー、そして片手には棍棒という出で立ちの彼のトレードマークを強調して描くことで、一瞬で彼とわかる。この作品は店名などの文字情報が載せられる前の貴重な一枚となる。
第3章で見ることができるこの作品はちょっと珍しいかもしれない。ロートレックが懇意にしていてコテル爺さんと呼ばれていたアンクール印刷所のベテラン刷り師と、版画の刷り上がりを吟味するモンマルトルの花形ダンサー、ジャヌ・アヴリルの姿。多色刷りのリトグラフを多く使って人気を集めた版画集『レスタンプ・オリジナル』誌の記念すべき第1号の表紙になった作品で、版画集制作のひとコマを垣間見ることができる。
展覧会ではこうした出版のための版画における制作工程、つまり鉛筆の素描から石版、文字のせ前の刷り、そして完成作までを見ることができる。いまもパリで細々とながら続けられる複雑で興味深い多色刷り版画の世界を楽しみたい。
そして第4章は、ロートレックの代名詞ともいうべきポスターの世界。当然のことながらポスターは屋外に掲示されるので、多くは破損したり変色したり、オリジナルの状態をとどめていない。この点フィロス・コレクションは状態の良いものを厳選し、しかも広告として必要な文字入れをする前の刷りを主に収集。ロートレック自身のデザインをオリジナルで見ることができるのが特徴だ。
上記の作品《ディヴァン・ジャポネ》は、日本風の内装が売りだったキャバレ「ディヴァン・ジャポネ」(「日本の長椅子」の意味)のためのポスター。客としてショーを眺めるダンサーのジャヌ・アヴリルを主役にすることで、ここが有名人も集まる店であることを印象づける。舞台の上にいるのは先ほども見た歌手のイヴェット・ギルベールであることが、黒い長手袋の特徴から見てとれる。このシンプルながら力強い構図は、浮世絵から影響を受けたものと考えられている。
こうして時代の寵児になったアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック。健康には恵まれなかったが、彼は多くの仲間に囲まれ、その人なつっこい性格もあって36歳の若さで亡くなるまで人々に愛されていたという。展覧会最後の章では、そんなロートレックがプロデュースした食事会のメニュー・カードや、私的な展覧会の招待状、家族や知人にあてた手紙など、彼の私生活を垣間見ることができる作品や資料が展示されている。
足が不自由だったロートレックは、初期の頃から駆け回る馬や動物に関心をもって描いてきたが、晩年もあらためてその主題を取り上げている。《ポニーのフィリベール》は、彼の飲み友達だった貸馬車屋のエドモン・カルメーズが所有する馬のフィリベール。描かれたその細やかな線には、彼の愛情が感じられる。
こちらはロートレックの友人で写真家のポール・セスコー。ロートレックはモンマルトルにあったセスコーのスタジオのための宣伝ポスターを手がけていた。食通だったロートレックは自分で創作料理を考案して、メニュー・カードまで作成。このカードにはバンジョーを弾くセスコー、右上に同じくロートレックの友人モーリス・ギベールのカリカチュアが描かれている。
持病や障害、晩年のアルコール依存症など、病気と闘いながら生きた36年。短い生涯でありながら、ロートレックはそれを華々しく生き、膨大な数の作品を残した。ポスターという文化を芸術の領域にまで高めた彼のよく知られた作品はもちろん、ふだんはなかなか見ることのできない直筆のデッサンなどを通じて、ロートレックの「エスプリ」を展覧会で実感したいところだ。
フィロス・コレクション ロートレック展
時をつかむ線
会場:SOMPO美術館(東京・新宿)
会期:2024年9月23日(月・祝)まで
開館時間:10:00〜18:00(金曜日は20:00まで)
(最終入場は閉館30分前まで)
休館日:月曜日(ただし9/16、9/23は開館)
詳しくは美術館公式サイトへ
※記載情報は変更される場合があります。
最新情報は展覧会公式サイトをご覧ください。