その歌声で世界を魅了するコロラトゥーラ ソプラノ、田中彩子さん。コロラトゥーラとは、小鳥のさえずりのように軽やかに歌う技法。田中さんは中でも高音域までも美しいハイ・コロラトゥーラという声種で「天使の歌声」とも称されています。ソプラノ歌手としてはもちろんのこと、近年は音楽や芸術を通して持続可能な社会活動を行うJAPAN MEP(Japan Association for Music Education Program)を設立し、代表理事を務めています。
JAPAN MEP の活動の一環である、8月30日より開催されるアルゼンチン国立青少年交響楽団のコンサートについて、また田中さんの歌手活動や私生活についても話をお聞きしました。
若い世代の方にオーケストラの可能性を感じて欲しい
――JAPAN MEPを立ち上げた経緯をお話いただけますか。
もともと進んで人前に出るタイプではなく、人前で話すことすら苦手。そんな自分が大勢の方の前で歌う仕事をしていることが不思議だなと感じてきました。だからこそ、歌以外になにか使命があるんじゃないかとずっと考えていたんです。
そんななか、10年ほど前に「最後の調停官」と呼ばれる方にお会いする機会がありました。その方がなぜ“最後”なのかというと、紛争地域に出向いて国際交渉が成立しなければ戦争になってしまうという大変なお仕事だからだそうです。
その方はお仕事の傍ら、紛争地域の子どもたちにぬいぐるみを贈る活動をしているんです。紛争地域ではぬいぐるみに爆弾を入れられていることがあるので、怖いものという印象を持っている子が多いのですが、本来はかわいいものなんだよと伝えるためにぬいぐるみを配って歩いているそうです。
なんて素敵なんだろうと感じ、私の中で今までモヤモヤしていたところに光が差した気がしました。とはいえ、紛争地域に私が行ってすぐに役立つことはできません。
そこで私にとって身近な音楽を通してできることで、子どもたちに一番いいことは何かと考えました。音楽に触れると、協調性や創造性など社会に出るために必要なことがあらゆる面で鍛えられるんですよ。小さい頃から音楽を通した学びができたら、いずれは争いがなくなる社会につながっていくのではないか。音楽の力ってそういうところにあると思ったんです。
そこで、当時つながりのあったアルゼンチン国立青少年交響楽団を日本に呼んで、音楽を通じお互いの国を知ることが何かの刺激になれば大きな一歩になると考えました。
この企画の実行にあたって作った法人がJAPAN MEPです。
――アルゼンチン国立青少年交響楽団はどのような楽団ですか。
ブエノスアイレスは、イタリアやフランスの移民の方々が多くクラシック音楽が盛んです。ヨーロッパがオフシーズンの夏休み中に、ブエノスアイレスに呼ばれてリサイタルやコンサートをするというのが音楽家の中ではステータスになっています。
私もコンサートに呼ばれた際に初めて訪れたのですが、道なりに見えるスラム街が想像を絶するものでした。それまで、ヨーロッパ内でもそれなりに治安が良くない場所を見てきたつもりでしたが、スラム街を目の当たりにすると頭ではなく肌で感じる何かが全く違っていたんです。
鉄格子に囲まれていて見張り役がいる場所を通らないと外に出られないような、かなり厳しいスラム街でした。それでも、その中に子どもたちがワーッて遊んでいるのが見えるんですよ。
そこで止まったら危ないというくらいの場所なので、車の中から見ただけですが、同じ時代に生きていると思えないほどの衝撃でした。
現地の人からは、これが世界のほとんどの現実で日本という国が夢物語だということを知っておくべきだと言われ、納得するとともに世界の広さを改めて実感しました。
そんな中でも、子どもたちがオーケストラに入っているという話を聞いて、ぜひ一度観たいと。それで出会ったのがこの楽団なんです。
アルゼンチン国立青少年交響楽団は、スラム街のいわゆる貧困層の子も裕福な子も、国籍も関係なくオーディションに受かった子は誰でも入ることができるんです。舞台の上に立ったら、日頃の環境とか状況は関係なく、みんな平等。本人の希望以外のところで左右されてしまう点を何とかなくそうとしていると感じ、興味を持ちました。
――日本で公演することについて、皆さんどんな反応をされていましたか。
こんな機会がない限り、ほとんどの子が日本と関わることはないと思うんですね。同じ時代の同じ時期に生きていて、もちろん遠いですけど会おうと思えば会える。だったら、なるべく世界中の子どもたちが交流できるような機会を作りたいと思っていました。
日本というと、夢みたいな場所で、「ゴミが落ちてないんでしょう」「新幹線って速いんでしょう」と、みんなワクワクしています。
――コンサートに向けてどういった準備をされているのでしょうか。
専門のイベント会社に頼めば簡単に実現できる企画だと思うんです。でも、私自身が企画をやり遂げることに意味があると思い、スタッフの手配やスポンサー探しなどもすべて自分で対応しています。
私がメディアに出ると、日本の子どもたちから「自信がない」とか「一歩踏み出せない」というような相談のメッセージがたくさん送られてきます。
私自身も道半ばの完成されていないことがたくさんある中でこの企画を成功させることができれば、「誰でも諦めなければやりたいことを実現できる」というメッセージをその子たちへ届けられると思っています。
――8月のコンサートはどんなコンサートになりそうですか。
3種類のバリエーションがあるコンサートで、1つ目は通常のフルオーケストラコンサートを行います。2つ目は子ども向けのコンサートです。一般的なクラシックコンサートは未就学児が入れないものが多いんですけど3歳から入場いただけます。ピーターとオオカミというオーケストラで、「うさぎさん、オオカミさんが…」と私がナレーションをする1時間のかわいいコンサートです。
もう1つは京都の亀岡にあるサンガスタジアムというサッカースタジアムで野外コンサートを行います。京都の教育委員会と連携し、小中高校の学校行事として多くの学生の皆さんに来ていただく予定です。
通常のクラシックのツアーとは全然違う形式で、彼らにとっても大きな挑戦になります。
ただオーケストラを呼んだコンサートというわけではないので、いろんな可能性を見てほしいですね。若い子たちに「オーケストラかっこいい、私も弾いてみたい!」という新しいイメージを持っていただきたいと強く思います。
――田中さんの活動のエネルギーになるものは何ですか。
歌うことのエネルギーが自分だけに向いていたら、多分、頑張れなかったと思います。最初は、自分を支えてくれる周囲の人たちに喜んでほしいから頑張る。その次にはいつもコンサート来てくれるファンの方々に喜んでもらいたいから頑張る…といつもエネルギーが外に向いていました。それがだんだん大きくなって、今度はもっとたくさんの子どもたち、青少年たちのために、より良い未来を歩きやすくなるきっかけが一つでも作れたなら、生きていてよかったなと思えます。私も逆に、周りの方から力をもらって、歌がより良い方に進んでいっている気がしています。
オペラの知識が無いまま単身ウィーンへ
――改めてソプラノ歌手になった経緯を教えてください。
3歳からピアノを続けていましたが、手が小さく、18歳の頃にプロへの道を諦めました。でも、ご飯を食べる、歯を磨く、ピアノを弾くくらいに生活の一部だったものが急になくなるのは想像できなくて。
かといって新しい楽器を買うとなると、その楽器がうまくいかなかったらもったいないじゃないですか。初期投資が少ないのは歌だったんです。歌の先生を紹介してもらって、音域を調べるために歌ってみたら、すぐ高音が出たんです。
それがハイ・コロラトゥーラといって世界的にも珍しいからやってみたらと言われて、「じゃあやります」みたいな軽い気持ちで始めました。でも半年くらいはすっごく不真面目だったんです。
「田中さんが練習に来ないんです」と先生から親に連絡が行くほどで、オペラも聴いたことがなかった。なんとなく続けていた中で、先生から一週間の研修旅行に誘われてウィーンに行くことにしました。
初めてウィーンに降り立った瞬間、今までピアノで弾いていた音楽がブワーって全部蘇ったんです。ここから音楽が生まれたんだと納得しました。
そのときの講習会の先生に本当に歌をやるなら今すぐウィーンに来なさいと言われ、ちょうど高校卒業のタイミングだったので、「じゃあ行きます」と。両親に特に反対されることもなくすんなり決まって、3ヶ月後に留学したんです。
相変わらずオペラも聴いたことがなかったし、正直、歌に興味があったかって言われるとなかったけど、音楽の道に進むにはそれしかなかったから、進んだっていう流れだったんです。
――そう聞くと、順風満帆にも思えますが、留学生活で苦労されたことはありましたか。
留学して1年目は日々のことで忙しいのですが、2年目、3年目になると、それが落ち着いてきて、ヨーロッパの生活が現実になるわけですよね。だんだん自分は外国人で許可がないと住めない存在っていうのがすごく苦しくなってきました。
日本にいる友人は華やかな大学生活を送り、就職というタイミング。それなのに自分は家と練習の往復で、スーパーに行っては一番安いパンかジャガイモかで悩み…すごく暗い生活なんですよ。結果が出なければ、この4年間はただの暗黒の4年間になってしまうとプレッシャーを自分に与えていました。そしたら、唯一外国で勝てる武器だと思っていた高い声が出なくなったんです。歌って精神とつながっているんですね。尋常じゃない高い声は、何も考えないぐらいの脳天気さがないと出せないんです。こうなると歌うこともできなくなっていきました。
これはとうとう終わりだな、それなら一切歌から離れようと思ったんですよ。歌のためにやっていた大きい声を出さないとか早く寝るとか、ストイックな生活を全部やめて、楽譜も目の前から消し去り、クラブに行って夜な夜な叫んで、今までできなかったやりたいことをとにかくやりました。そんな生活で数ヶ月経ったころ、シャワー中や機嫌がいい時に、無意識に歌ってる自分に気づいて。歌いたいのかなって思ったんですよ。それで久々にピアノを開けて声を出したら以前より調子がいい。そこから自分を信じて頑張ってみようと練習したら少しずつ高い音も出るようになってきて。声が戻ってきたかなっていう時に初めてコンクールを受けてみたらスカウトされてデビューが決まったんです。
――オペラに魅力を感じて歌手として続けていこうと思うようになったのはいつ頃からでしょうか。
正直に言いますと最近ですね。
予算が少ない留学生活で、コンクールを受けるのもお金がかかるわけですよ。だから、受けずにずっと練習し続けていて、二次試験まで通ったらお金が返ってくるものを選んで受けた時にスカウトしてもらってデビューが決まったんです。それが22歳の時で、生まれて初めて舞台に立ったのが劇場で右も左も分からない状態でした。
そこで夢を見て素敵だなと思う間もなく、いきなりオペラの現実を知るわけですよ。観客の前では綺麗にして歌っている人が、すぐ裏で「終わったら何食べよう」みたいなことを話しているのがすごく面白くて。人間味があるのが身近に感じられて、オペラって面白いかもと思うようになりました。
ただ、自分にこの仕事が向いているかどうかは今でもわかりません。やっぱり目立ちたいタイプではなかったがゆえに、人前で堂々と歌うのが最初はすごく苦痛でした。オーディションに行っても海外の方って自信満々に見せるのがすごくうまい。やっぱり私は舞台に合ってないのではと思いながらも、食べていくために仕事を探したらもらえて、日本でもデビューが決まって…。仕事を続けられていることが不思議で、歌以外にやるべきことがあるんじゃないかなって思った、というのが冒頭にしたお話に続くんです。
生活の全てが文化芸術につながる
――私生活についても少し聞かせてください。どんなお部屋にお住まいですか。
私は住む場所にものすごくこだわりがあって、小さい頃から何かあったらすぐ部屋の模様替えをしているんですよ。理想はモデルルームのような生活感のない場所。目に入るものをとにかくきれいにしたいので、基本的に物を置かないようにしています。
住んでいる場所って心がそのまま映ると思うんですよね。忙しくなると乱れるじゃないですか。嫌なことがあったときには掃除をするとスッとします。それぐらい住む場所っていうのは、メンタルに一番影響する大事な場所だと思っています。
インテリアも必要最低限で気に入ったものだけを揃えるようにしています。
ナチュラルな北欧系の木のテイストが好きで、なるべく自然に近い感じにしたくて木と白、ベージュがテーマですね。
ウィーンでも日本でも帰って最初にすることは花を飾ることに決めていますが、基本的に緑か白のシンプルな花しか飾らないんですよ。
――おすすめのアートスポットはありますか?
ウィーンのレオポルド美術館が大好きで、現代美術館で常設ではシーレやクリムトがあるんですけど、時期にもよりますがその時代の音楽家の楽譜があったり、その年代に流行ったデザインのチェアがあったりして、すごく好きです。
またこれはウィーンや日本で機会があれば、森に行って耳の洗濯をしています。現代社会の街中では自然じゃない音に溢れているじゃないですか。それを森で全部リセットしたいなって。
五感が綺麗になって、感覚が鋭くなる感じがするんです。それが巡り巡って音楽にもつながっていきます。
――それでは、最後に今後の目標を教えてください。
まずは直近のアルゼンチン国立青少年交響楽団の企画を成功させて、青少年や子どもたちはもちろん、働く大人の皆さんにとっても音楽がより身近な存在になってほしいと願っています。
私が理事長を務める広島のAICJ 中学・高等学校は、国際社会で輝くビジネスパーソンになるための学校です。輝く人材を育てるためには、文化芸術が必要だという学校の方針で、私も賛同しています。学生の皆さんにはなるべく多くの音楽やアートに触れてほしいんです。それが将来的に絶対、助けになると思うんですよ。なぜならどんな仕事をするにしてもクリエイティブな考えが生まれない限り何も進みませんから。
現在ビジネスパーソンとしてバリバリ活躍されている方々も同じです。目の前のものを片付けて綺麗な部屋に住む、森に行ってリラックスする、私にとってそれは全て芸術です。「これが音楽」「これがアート」と分けるのではなく、自分にとってより良い生活、より良い仕事環境、より良いイマジネーションを見つけていくために文化芸術を大切にしていただきたいです。
すべての方に芸術に触れる機会が増えるといいなと思っていますので、音楽を通してそれに貢献していきたいと思います。
コロラトゥーラ ソプラノ田中彩子
18歳で単身ウィーンに留学。 わずか4年後の22歳のとき、スイスベルン州立歌劇場にて『フィガロの結婚』のソリスト·デビューを飾る。 同劇場日本人初、且つ最年少での歌劇場デビューで大きな話題を集め、6ヶ月というロングラン公演を代役なしでやり遂げる。UNESCOやオーストリア政府の後援によりウィーンで開催されている、青少年演奏者支援を目的としたSCL国際青少年音楽祭に2018年より出演。アルゼンチン政府が支援し、様々な人種や家庭環境で育った青少年に音楽を通して教育を施す目的で設立されたアルゼンチン国立青少年オーケストラとも共演するなど、社会貢献活動にも携わっている。 2019年 Newsweek誌 「世界が尊敬する日本人100」 に選ばれる。
2014年にエイベックス・クラシックスよりデビュー、2024年7月24日には「ベスト・オブ・ハイコロラトゥーラ」を発売、9月より「田中彩子 デビュー10周年記念リサイタル」全10公演のツアーも開催される。
《SDGs x 芸術》を理念に活動する法人、Japan Association for Music Education Program /代表理事
アルゼンチン国立青少年交響楽団 (指揮:マリオ・ベンセクリ)来日公演
・東京公演
日時/8月30日(金)19時~、31日(土)11時~(1時間)
会場/国立オリンピック記念青少年センター(東京)
(東京都渋谷区/30日は大ホール、31日は小ホール)
・京都公演
日時/9月2日(月)9時30分~
会場/亀岡サンガスタジアム(京都)
*学生招待によるチャリティー公演のため一般発売でのお取り扱いはございません
https://www.japanmep.com/sinfonica
読者プレゼント
国立オリンピック記念青少年センターで開催されるアルゼンチン国立青少年交響楽団来日公演の鑑賞チケットを各日10名様ずつにプレゼントいたします。
下記応募フォームよりお申し込みください。
<応募期間:2024年7月17日(水)12:00~7月23日(火)23:59まで>
https://www.morimoto-real.co.jp/d_morimoto/japanmep/sumau/
※1回につき最大4枚までご応募いただけます。
※チケットは当日会場受付にてお渡し予定です。詳細は当選者の方に個別にご連絡いたします。
※1世帯1回までのご応募とさせていただきます。
※応募者多数の場合は抽選となりますのでご了承ください。
【東京公演詳細】
日時:8月30日(金)18時半開場/19時開演
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター大ホール
予定演目:ブラームス/アカデミックフェスティバルOp.80、ピアソラ/天使のミロンガ、チャイコフスキー/交響曲第5番ほか
(小学生以上入場可能)
日時:8月31日(土)10時半開場/11時開演※公演時間は1時間ほどを予定
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター小ホール
予定演目:ピアネオ/子供のためのコメディ序曲、プロコフィエフ/ピーターと狼
(3歳以上入場可能)