山の上ホテル(Hill Top Hotel)の歴史は1954年1月20日、‘西洋旅籠’をコンセプトに、創業者、吉田俊男氏によりそのドアが開きました。当時ホテル経営の経験などはなかった吉田氏。当時、日本がホテル黎明期にいた時代、ヨーロッパの家族経営の小ホテルのような気品を湛え、日本旅館のもてなしを融合させ、それをコンセプトとしたホテルの始まりでした。

 今も尚、「山の上ホテル」には、「ホテルはこうあるべき」というホテル然としたことは決められていないと言いますが、そのクラシックホテルとしての品格や、スタッフの温かな対応、一流の食事処の揃うホテルは、日本でも少なくなったラグジュアリーなクラシックホテルの魅力をすべて備えています。ホテル館内には今もって案内板はなく、コンシエルジュもいません。しかし、玄関前に到着すると、制服を着たベルパーソンが駆け寄ってきてくれる、安心感を抱くほのぼのとしたシーンは健在です。駿河台付近の街のこと、店の案内、ホテル内のレストラン自慢まで、マニュアルの言葉ではなく人情を感じる対応は‘江戸のホテル’として多くのファンがいます。

エントランスを入ったところ、復元された床に輝く「八芒星」(2019年復元)。
エントランスの奥にある‘小ロビー’と言われる空間。辞書コーナーとライティングデスクが用意され、仕事をするにも調べ物をするにも英和辞典から医学事典まで、多くの種類を揃えてある。

 ホテルが歩んだ歴史上の物語は数知れません。ジグザグな階段状の外観は、一目で「山の上ホテル」を認識できるアールデコ建築様式で、とても美しく凛としたホテルとして建築的にも重要な建物です。ストーリーの一つには、2019年の改修時、ロビーの絨毯をはがすと、テラゾー床にホテル創業後にいつしか忘れ去られていた「八芒星正八角形による星型多角形)」が現れたといいます。これはかつて‘佐藤新興生活館’時代(1937年頃)にあったもので、再生や循環を意味するモチーフ。ホテルではこのモチーフをエントランス先の床に復元し、歴史の証人としてゲストの来館を歓迎しています。

 ホテルの客室は全35室、私は個人的な宿泊も含め3度ほど滞在しています。当初は「情報と色彩過多の街並みに、一服の清涼剤のような安息地」をと掲げたそうですが、その思い通り、このホテルを訪れるファンは、皆、その思いに共感していたに違いありません。ホテルの周辺には出版社や大学、病院なども多くあり、そのせいか、著名な作家も多く逗留し、小説を書き上げたことも知られています。文芸に関わる人々に愛されたロビーには、池波正太郎作の絵画が飾られ、宿泊者も、川端康成、三島由紀夫、田辺聖子など錚々たる作家たちの名が挙げられます。

 食事処も有名です。天婦羅と和食「てんぷら山の上」は、東京のホテルで初めて、揚げたての天婦羅を一品ずつ出す形を確立した店として、‘美味しい天婦羅の店’として地位を築いてきました。2007年には六本木に、2017年には銀座に出店した「てんぷら山の上Ginza」。伝統は都内各所直営店である「てんぷら山の上日本橋三越本店内」「レストランヒルトップ順天堂医院内」でも引き続き営業し、老舗の味が受け継がれていきます。

旬菜鮮魚を江戸前の技で仕上げるてんぷらの名店。かつて「焼き芋に勝る味をてんぷらで」と、元料理長、近藤文夫さんが生み出した「さつま芋のてんぷら」10cm程の切り株状にしたさつま芋(丸十)を40~50分じっくり揚げる。近藤氏は現「てんぷら近藤」(銀座)の主で料理人、「現代の名工」受章。

 2024年1月11日、新年早々に「山の上ホテル」である宴が開かれました。案内状にはこう書かれていました。「2024年は70周年というアニバーサリーイヤーでありながら、2月12の営業をもって休館が決定しております」と。そこで歴代の総料理長が統括してきた‘食の山の上’を体現する、懐かしくも誠実な味わいを共にしたい…という、関係会社主催の集まりでした。安曇野に移住している私も喜んで駆けつけました。美味しい、懐かしい、正直なホテルの食事を立食にていただきながら感動です。休館を惜しむ声に包まれる時間でした。

 ホテルは人が作り、人が育てるもの。ゲストを見ればそのホテルの格式も見えてきます。私もホテルジャーナリストとして今年で30年、都心のクラシックホテルを見続けてきましたが、次々と閉館していく寂しさを何度も体験しました。

そして2024年2月12日、歴史を刻んだ‘文化人のホテル’がまた一つ、ドアを閉じ休館します。そのドアが再開することを祈ってやみません。

庭付きのスイートルーム(403号・51.6㎡)のリビング。庭には季節の花が咲き、朝には小鳥の声が響く。都心とは思えないほっとする空間。
美しく磨かれているアールデコ建築の館内にある螺旋階段。
数え切れない文化人、作家、編集者、セレブリティに愛され続けた山の上ホテルの名物バー「バーノンノン」。ホテルのオリジナルカクテルは、「ザ・ヒルトップ」「ドクターヴォーリズリバイバル」(各1800円)。
近くに寄ったホテルの外観、前景。

取材・文/せきねきょうこ

Photo: 山の上ホテル

せきねきょうこ/ホテルジャーナリスト

スイス山岳地での観光局勤務、その後の仏語通訳を経て1994年から現職。世界のホテルや旅館の「環境問題、癒し、もてなし」を主題に現場取材を貫く。スクープも多々、雑誌、新聞、ウェブを中心に連載多数。ホテルのアドバイザー、コンサルタントも。著書多数。

http://www.kyokosekine.com

Instagram: @ksekine_official






DATA

山の上ホテル

東京都千代田区神田駿河台1丁目1

📞  03-3293-2311
https://www.yamanoue-hotel.co.jp/

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