エゴン・シーレという画家を知っているだろうか。


彼は1890年にオーストリアの首都ウィーンの郊外、ドナウ川に沿った街トゥルンで生まれ、ウィーンを中心にわずか28年という短い人生を駆け抜けていった夭逝のアーティストだ。ほかに見たことのないような筆のタッチ、人の内面を鋭く、時に暴力的にえぐり出すかのような描写、鮮烈な色彩・・・現代でも十分に新鮮な強い表現性が、私たちの心を惹きつける。



レオポルド美術館 © Leopold Museum, Vienna, Ouriel Morgensztern


上野の東京都美術館で1月26日から開催される展覧会「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」は、このエゴン・シーレの世界有数のコレクションで知られるウィーンのレオポルド美術館の所蔵作品を中心に、彼の油彩画、ドローイングなど合わせて50点が集結する。ヨーロッパのアート界が激動の時代を迎えていた19世紀末から20世紀にかけてオーストリアで活躍したクリムト、ココシュカ、ゲルストルなど同時代の作家たちの作品も展示。エゴン・シーレをめぐるウィーン世紀末美術を展観する大規模展となる。彼の表現世界を実際に目撃するまたとない機会になるはずだ。



エゴン・シーレ《自分を見つめる人Ⅱ(死と男)》 1911年 油彩/カンヴァス レオポルド美術館蔵 Leopold Museum, Vienna


子どもの頃から絵の才能を認められていたというエゴン・シーレは、1906年、16歳のとき学年最年少の特別扱いでウィーン美術アカデミーに入学する。しかし当時の美術学校はまだ保守的な教育で、早熟な彼を満足させるにはほど遠いものだった。そこで彼は早々と授業を離れ、グスタフ・クリムトと出会い、その類い稀な画才を認められることになる。


『接吻』などの作品で世紀末ウィーン美術の巨匠として世界的に知られたこのグスタフ・クリムトと、まだ少年と言ってもいいほどの若きエゴン・シーレとの対話が印象的だ。シーレはクリムトに「僕には才能がありますか」とたずねる。それに対してクリムトは「才能がある?それどころかありすぎる」と答えたという。エゴン・シーレの天才ぶりを象徴する出来事といえるだろう。



グスタフ・クリムト《シェーンブルン庭園風景》 1916年 油彩/カンヴァス レオポルド美術館に寄託(個人蔵) Leopold Museum, Vienna


当時クリムトは「ウィーン分離派」という新進芸術家のグループを結成してアートシーンに大きな風穴を開け、さらにより新しい様式を求める芸術家たちと「クリムトグループ」を形成していた。彼らが参画し、ウィーンモダニズムの画期的な展覧会となった1909年の「クンストシャウ」(芸術展)に若きエゴン・シーレも参加。『接吻』を出品したクリムトのほか、マティス、ムンク、ゴッホといった国外の巨匠とともに作品が展示されたのだった。


10代にして脚光を浴びた彼は卒業を待たずにウィーン美術アカデミーを退学し、ココシュカなどと共に「新芸術家集団」というグループを結成。「新しい芸術家というのはごくわずかしかいない。それは選ばれし者にほかならない」ー グループ結成の宣言でこう語ったという彼は、まさしくその特別な才能を開花し、独自の表現主義的なスタイルを確立していく。



エゴン・シーレ《菊》 1910年 油彩/カンヴァス レオポルド美術館蔵 Leopold Museum, Vienna


エゴン・シーレ《背を向けて立つ裸体の男》 1910年 グワッシュ、木炭/紙
個人蔵 Leopold Museum, Vienna


しかし常識にとらわれない彼の創作は、世間にすんなりと受け入れられるものではなかった。1911年に20歳の彼は母親の故郷でもあるチェコの町クルマウ(現在のチェスキークルムロフ)に移住。今では世界遺産に登録されるこの地を愛し、多くの風景画を描いたが、ヌードモデルが家を出入りする彼の生活に対する地元の人々の視線は厳しく、わずか3ヶ月ほどで町を去ることになってしまった。



エゴン・シーレ《モルダウ河畔のクルマウ(小さな街Ⅳ)》 1914年 レオポルド美術館蔵 Leopold Museum, Vienna


クルマウを去ったシーレはウィーンに戻り、郊外のノイレング・バッハに移る。ここで彼は近所の子どもを誘って絵のモデルにしたりしていたのだが、ある日14歳の家出少女が家を訪れ、それをかくまったシーレが少女誘拐とわいせつ画の疑いをかけられ逮捕、収監されるという事件が起きてしまった。実際には宿を提供しただけとされるが、裁判での判決の際には裁判官に素描を燃やされるなど屈辱を受け、彼は創作意欲を失ってしまう。そんなシーレを支えたのは彼のモデルであり、クルマウやノイレング・バッハでの生活を共にしていた1911年以来の恋人ワリー・ノイツェルだった。



ワリー・ノイツェルを描いた作品 エゴン・シーレ《悲しみの女》 1912年 レオポルド美術館蔵 Leopold Museum, Vienna


またも追われるようにウィーン市内に移ったエゴン・シーレだが、私生活の複雑さとは裏腹に、少しずつ画家としての評価は高まり、初の個展をドイツで開催。さらにローマ、ブリュッセル、パリなどでも作品が紹介されることになる。画壇で成功し始めた彼はアトリエの向かいに住んだ裕福なハームス家の姉妹と親しくなり、ワリーと別れ、姉妹のうちの妹のエディットと結婚する。シーレ25歳のときだった。



エゴン・シーレ《縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ》 1915年 レオポルド美術館蔵 Leopold Museum, Vienna


結婚からほどなく第一次世界大戦が勃発。シーレもオーストリア=ハンガリー帝国の軍人として招集されるものの、画家であると明かすと前線に送られることを免れ、後方で創作活動を続けることを許された。彼は多くの作品を手がけ、終戦に近づいた1918年に開催された第49回ウィーン分離派展にメイン作家として紹介されるほどに。一躍注目を集めた彼の作品の多くに注文が集まり、ようやく大衆からの高い評価を得ることになったのだった。


しかし悲劇は突然に訪れる。その原因は、ちょうど1918年の春に世界的な流行を始めたスペイン風邪だった。人類史上最も多くの死者を出したパンデミックはオーストリアにも魔の手を伸ばし、シーレの家族を襲う。シーレの子どもをお腹に宿した妻のエディットが亡くなり、その3日後にシーレ自身もあっけなく命を落とす。


病床で彼は「戦争が終わったのだから、僕は行かねばならない。僕の絵は世界中の美術館に展示されるだろう」と言い残したという。画家として絶頂に達し、さらにその先を思い描いていたであろう彼にとって、自分の死はきっと信じられないものだったに違いない。



エゴン・シーレ《母と子》 1912年 レオポルド美術館蔵 Leopold Museum, Vienna


エゴン・シーレのこの作品《母と子》は1912年に描かれたものだが、暗い画面と目を見開いて恐怖心をあらわにする子どもの姿は、どこか将来起きるシーレ家の運命を暗示しているかのようだ。この作品をシーレは筆ではなく指で描いていて、一部には彼の指紋も残されている。


自分にしかできない表現のために、常識という枠や手法にとらわれず描き、たった28年の生涯にもかかわらず鮮烈な作品と存在感を美術史に残したエゴン・シーレ。30年ぶりとなる東京でのこの展覧会を見逃すわけにはいかないだろう。



アントン・ヨーゼフ・トルチカ《エゴン・シーレの肖像写真》 1914年
写真 レオポルド家コレクション Leopold Museum, Vienna




レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才


会場:東京都美術館(東京・上野公園)

会期:2023年1月26日(木)〜4月9日(日)まで

開館時間:9:30〜17:30(金曜日は20:00まで)

※入室は閉室の30分前まで

休館日:月曜日


入館料その他の情報は展覧会公式HPへ

https://www.egonschiele2023.jp/



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