フェリックス・ヴァロットンという画家の名を、聞いたことはあるだろうか。


彼は19世紀末から20世紀初頭にかけてパリで活躍した画家。黒一色の木版画で注目を集め、そのスタイルはフランスのみならずヨーロッパ全体に衝撃を与えた。


モノクロの世界は、時に鮮やかな色彩よりも、見る私たちにインパクトをもって何かを語りかけてくる。フェリックス・ヴァロットンは、黒と白のコントラストを巧みに操り、時にブラック・ユーモアにも近い視点と辛辣な風刺を込めて、当時の風景や時代の空気をあざやかに切り取った。その絶妙な構図やデザイン性は、今でもまったく褪せることなく、色彩にあふれた私たちの世界ではむしろ新鮮に映る。


東京・丸の内の三菱一号美術館は、約180点におよぶ世界有数のヴァロットン版画コレクションを所蔵。現在、その貴重な作品の数々を中心にした「ヴァロットン ー 黒と白展」が開催され、注目を集めている。


フェリックス・ヴァロットン《嘘(アンティミテⅠ)》1897 年 木版、紙 三菱一号館美術館


1865年、フェリックス・ヴァロットンは、スイスのローザンヌで生まれた。この頃はちょうどパリでクロード・モネなど印象派と呼ばれるようになる画家たちが活躍しはじめた時代。ヴァロットンはそんな芸術の都で画家になることを目指し、16歳でパリに出て、私立の美術学校アカデミー・ジュリアンに学ぶ。そして1891年に友人そして師でもあった画家のシャルル・モランからの手ほどきを受けて、彼は木版画の制作を開始。それに魅了されるや、敬愛する人物や故郷スイスの山並みを、粗い線描を活かした表現で版画に描いていった。


フェリックス・ヴァロットン《ユングフラウ》1892 年 木版、紙 三菱一号館美術館


翌年には早くも『芸術と思想』誌で作品が掲載され、批評家には「木版画の変革者」と称賛される。世間でのこうした高い評価がさらに彼を版画制作へと向かわせ、やがてフランスだけでなくヨーロッパ中で話題になっていく。その4年後に手がけた作品が《1月1日》。着飾った裕福な人々と、施しを求める人たちが描かれ、新しい年をまったく違った境遇で迎える市民の貧富の差を描いた。展覧会ではこの作品をプリントした貴重な元の版木も展示されていて、作家の創作の痕跡を辿ることができるのが興味深い。


フェリックス・ヴァロットン《1 月1 日》1896 年 木版、紙 三菱一号館美術館


フェリックス・ヴァロットン《1 月1 日》のための版木 フェリックス・ヴァロットン財団、ローザンヌ
@Fondation Félix Vallotton, Lausanne


異国の人ヴァロットンにとって、パリは観察の対象としてもってこいの街だったらしい。中でも彼の関心を引いたのは「群衆」の行動や社会の暗部を映しだすような事件で、それを皮肉やユーモアを込めて描き出した。しかもただそれをリアルに描写するだけでなく、斬新な視点とフレーミング、そしてモチーフの単純化、ダイナミックな人物表現など、木版画の世界に独自の境地を拓いていく。学生たちのデモ行進を描いた下の作品は、まさにその象徴。主役の学生たちを、黒一色で画面を横切るように描く。そのアイデアとセンスには脱帽だ。


フェリックス・ヴァロットン《学生たちのデモ行進(息づく街パリⅤ)》1893 年 ジンコグラフ 三菱一号館美術館


フェリックス・ヴァロットン《入浴》1894 年 木版、紙 三菱一号館美術館


木版画における独自の表現で一躍知られるようになったヴァロットンは、1893年初めにパリの若手前衛芸術家グループ「ナビ派」に仲間入りする。ここで彼は、ボナール、ヴュイヤール、ドニといった「ナビ派」の画家たちとともに活動。しかし彼らがむしろ主に多色刷りのリトグラフ(石版画)を手がけたのに対し、ヴァロットンは黒白の木版画にこだわり続ける。ナビ派やこの頃流行したアール・ヌーヴォーの美学に近い曲線による装飾性を持ちながら、それをモノクロームで描いた彼だけの表現に注目したい。


フェリックス・ヴァロットン〈アンティミテ〉版木破棄証明のための刷り 木版、紙 1898 年 三菱一号館美術館


展覧会第4章の「アンティミテ」(親密さ)では、ますます精密かつ大胆なヴァロットンの版画表現が際だっていく。彼は1894年から室内画を多く描き、密室の緊張感や謎めいた空気を、闇に見立てたような黒と浮き立つ白で巧みに表現していった。ベッドに横になり猫をたわむれる女性を描いた《怠惰》は、まさにその典型で、ヴァロットンの卓越したセンスを物語っている。重なるクッションやベッドカバーのモチーフは、この当時ヨーロッパでの芸術に影響を与えたという日本伝統の「型紙」の模様にヒントを得ているともいわれる。


フェリックス・ヴァロットン《怠惰》1896 年 木版、紙 三菱一号館美術館


フェリックス・ヴァロットン《フルート(楽器Ⅱ)》1896 年 木版、紙 三菱一号館美術館


こうした彼の室内画で、描かれる対象は極限まで単純化され、黒地にわずかな白で暗示的に描かれる装飾や調度品がアクセントになっている。1898年に限定30部で刊行された〈アンティミテ〉シリーズは、男女のただならぬ関係を描いた10点の連作で、ヴァロットン版画のまさに真骨頂。平塗りの黒い面が画面の大きな部分を占め、黒と白のコントラストを生むアラベスクの効果が最高潮に達したものといえる。


フェリックス・ヴァロットン《お金(アンティミテⅤ)》1898 年 木版、紙 三菱一号館美術館


彼は1899年、印象派など近代絵画を広く紹介したことで知られる大画廊ベルネーム=ジュヌの娘ガブリエル・ロドリーグ=アンリークと結婚する。大物の画商とのつながりで、経済状況が好転したヴァロットンは、絵画の制作にだけ打ち込むと決意しつつも、文学界、特に挿絵の世界では引き続き版画を手がけ、新しい表現を生みだしていった。第5章では、こうした文学や詩とのつながりのなかで、神話や物語といった空想的世界でも発揮された彼らしい風刺のきいた描写を取り上げている。


そのヴァロットンを再び版画制作へと向かわせたのは、1914年に勃発した第一次世界大戦だった。ドイツ軍の残忍さに怒りを覚えた彼は義勇兵に志願したものの、年齢が制限を超えていたため申請は却下に。それでも彼は木版画シリーズ《これが戦争だ!》で戦禍の恐ろしさを伝え、また1917年には従軍画家として前線に赴き、執筆活動も行ったという。


フェリックス・ヴァロットン《有刺鉄線(これが戦争だ!Ⅲ)》1916 年 木版、紙 三菱一号館美術館


晩年は健康状態の悪化に苦しめられたフェリックス・ヴァロットン。彼は1925年、患っていた癌の手術のあと60歳の誕生日を迎えた翌日にこの世を去った。


ヴァロットンが生きた19世紀後半から20世紀前半のフランスといえば、アートの歴史では印象派やフォーヴ(野獣)派、表現主義、未来派など、どちらかといえば色の豊かさや強さで知られた表現が多い。版画で知られたヴァロットンだが、実は彼も絵画作品では巧みな色使いが目を惹きつける。だからこそ、この展覧会に見る「黒と白」の世界が異彩を放つ。


三菱一号館美術館の煉瓦造りの建築、展示室内の雰囲気にもぴったりと調和してモノクロームの世界観がいっそう深みをもって感じられる展覧会。知らなかったヴァロットンの世界をぜひ丸の内で堪能してみたい。


フェリックス・ヴァロットン《歩道橋(万国博覧会Ⅴ)》1900 年 木版、紙 三菱一号館美術館



展覧会「ヴァロットン ー 黒と白」


会場:三菱一号館美術館(東京都千代田区丸の内2-6-2)

会期:2023年1月29日(日)まで

開館時間:10:00〜18:00(金曜と会期最終週平日、第2水曜日は21時まで)

※入館は閉館の30分前まで


入館料その他の情報は展覧会公式HPへ

https://mimt.jp/vallotton2/

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