アートといえば、それを生みだす画家や美術家が主人公であることは間違いない。しかし同時に作家を支え、信じ、作品を愛し、収集し、それを広める人などの存在なくしてアートは語れない。古くは教会や貴族が、近代以降はコレクターやメセナ、公的機関やギャラリーなどさまざまな人や機関がその役割を果たし、長い美術の歴史を育んできた。

いま東京都美術館で開催されている「ゴッホ展」は、こうしてアートが生まれ、それが残されて歴史を作っていくストーリーを垣間見るような展覧会といえるだろう。<糸杉>の傑作や《黄色い家(通り)》を初めとするゴッホの貴重な作品が集まった展覧会はまさにアートファン必見なのだが、そのサブタイトルに「響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」とあるように、これはヘレーネとフィンセントという2人の主人公の物語が交錯する展覧会でもある。

「フィンセント」は、ご存知の通り世界で絶大の人気を誇るフィンセント・ファン・ゴッホその人。そして「ヘレーネ」とは、このゴッホの芸術に魅了され、世界最大ともいわれるゴッホの個人コレクターとなった女性、ヘレーネ・クレラー=ミュラーのことだ。

ヘレーネは、ゴッホが1890年に亡くなったあと、彼がまだ評価の途上にあった1908年から、およそ20年間で90点を超える油彩画と約180点におよぶ素描、版画を収集。さらにはそれらのコレクションをもとに、美術館を設立するため生涯にわたり情熱を注いだ。


ヘレーネ・クレラー=ミュラー ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


展覧会は、このヘレーネの物語から始まる。

ドイツの小さな村ホルストで1869年に生まれたヘレーネ・ミュラー。勉強熱心だった彼女は教師の道を志すものの、両親の反対を受けて断念。父親が設立した会社の社員だったアントン・クレラーと19歳で結婚する。父親が亡くなったあと会社を受け継いだアントンと妻のヘレーネは、オランダのハーグに移住。そこで、ヘレーネは美術批評家で美術教師のヘンク・ブレマーの講義を受け、美術に関心を持つようになった。

実業家として鉄鋼業と海運業を経営し財をなした夫の支えのもと、ヘレーネは1907年、彼女が38歳のときからこのブレマーの助言を受けながら近代絵画の収集を始め、翌年には初めてファン・ゴッホの作品《森のはずれ》を購入する。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《森のはずれ》 1883年8-9月 油彩、カンヴァス 33.8×48.5cm
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


ブレマーはこの頃ようやく評価されはじめていたファン・ゴッホを、作品に精神や感情を与えることのできる最高の画家と考え、ヘレーネもそれに共感する。宗教的ともいえる情熱で創作活動に打ち込んだファン・ゴッホの芸術は、常に人生の深い意味を模索していたヘレーネにとって心の拠りどころとなり、芸術に生きる意義をここに見いだしたという。

その感動を多くの人々と分かち合い、貴重な作品を後世に伝えたい・・・。ヘレーネは、やがて美術館の設立を決意する。彼女は質の高い作品を選び、初期から晩年までゴッホの画業がたどれるよう体系的に収集。美術館を設立する前からコレクションを公開しはじめ、国内外の展覧会に快く作品を貸し出したこともあり、やがてヨーロッパ各国やアメリカでも高く評価されていくことになる。その間、第一次世界大戦の勃発、会社の財政危機、世界恐慌など、いくつもの困難にも見舞われ、一時は計画が停止したこともあったが、ヘレーネは自分の決意を最後まであきらめなかった。

そして1935年、コレクションをオランダ政府に寄贈した上で、1938年にクレラー=ミュラー美術館を開館、ヘレーネは初代館長に就任する。願いを遂げた彼女は翌年70歳でこの世を去った。


クレラー=ミュラー美術館外観 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


アムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館に次ぐ、ゴッホのコレクションを誇るこのクレラー=ミュラー美術館は、今でも近現代美術を中心に収集活動を続けていて、その数は約20,000点。今回の展覧会では、その中からゴッホの作品のみならず、ヘレーネが収集したモダンアートの名品も見ることができる。

なかでもルノワール、スーラ、シニャックなど印象派から新印象派(分割主義)、さらにルドンなど象徴主義の良質なコレクションを擁する。


ピエール=オーギュスト・ルノワール 《カフェにて》 1877年頃 油彩、カンヴァス
35.7×27.5cm クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


アートファンならひと目見てわかるルノワールの表現。人物画を得意としたルノワールが、カフェでの日常的なひとこまを、まるで写真のように切り取って描きあげた初期の作品。印象派の作品を好んだヘレーネは、同じくルノワールの初期作品である《道化師》(1868年・本展見出品)もコレクションに加えている。


オディロン・ルドン 《キュクロプス》 1914年頃 油彩、板に貼った厚紙 65.8×52.7cm
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


ルドンがこの作品に描いたのは、ホメロスの『オデュッセイア』に登場する一つ目の人食い巨人ポリュフェモス。巨人が見つめているのは、自分が恋に落ちたニンフ、ガラテア。巨人は彼女の恋人を殺してしまうのだが、奇妙なことにガラテアはどこか牧歌的な色彩に覆われている。ヘレーネはこの現実離れした神話の場面に最初は不快感さえ抱いたというが、やがてルドン作品の深みと美しさを理解し、多くの作品を収集したという。


そして展覧会はヘレーネ・クレラー=ミュラーの集めたゴッホの作品群へと移る。

前述のように、彼女はファン・ゴッホの画業をほぼ網羅するように収集。最初の素描はオランダ時代の作品に重点がおかれている。

ファン・ゴッホが画家になる決意をしたのは1880年、彼が27歳のときというから美術家としてのスタートはむしろ遅いほうだろう。最初はジャン=フランソワ・ミレーなどの版画や素描見本の模写から、やがては人物画家を目指してさまざまな素描の訓練をしていく。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《麦わら帽子のある静物》 1881年11月後半-12月半ば
油彩、カンヴァスに貼った紙 36.5×53.6cm クレラー=ミュラー美術館蔵
©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


この作品は1881年冬に制作されたもの。義理の従弟で画家のアントン・マウフェから指導を受け、様々な材質を描き分ける訓練として油彩の静物画を制作したという。ファン・ゴッホは1883年12月にオランダのニューネンに移り住み、そこで本格的な油彩画に着手。バルビゾン派やハーグ派と呼ばれる当時の画家たちを手本にした暗めの色調を用いた人物画を試み、何十点もの農民の頭部などの習作が描かれた。

そして1886年2月、いよいよ彼はパリにやってきて、画商として働いていた弟のテオと暮らし始める。時は「印象派」の名が生まれてすでに10年あまり。より鮮明な色合いの「新印象派」が注目された頃にあたる。ファン・ゴッホはパリに暮らす若い前衛芸術家たちと付き合い、浮世絵版画などとも出会ううち、自分の手がけてきた画風が時代遅れであることに気づいた。彼は色調を明るくし、新しい筆遣いを展開。約2年で表現を刷新し、力強く現代的なファン・ゴッホ独自の様式を発展させ、仲間内では前衛画家としてその存在を認められるようになっていった。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《レストランの内部》 1887年夏 油彩、カンヴァス 45.5×56cm
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


これは新印象派に近い実験をしていたとされる作品のうちのひとつ。レストランやバー、そこに集う人々はパリの前衛芸術家にとってなじみの深いモチーフだが、新印象派のタッチに集中するためか、画面に人物を描き加えていない。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《石膏像のある静物》 1887年後半 油彩、カンヴァス 55×46cm
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


また彼の作品でつねに重要な意味を持っていたのが本だ。この《石膏像のある静物》では敬愛するフランス文学の書物にバラを配し、ファン・ゴッホにとっての大きな慰めとなった文学と自然を描こうとした。

画家としての自信を深めたファン・ゴッホは南仏に向かい、1888年2月アルルに居を定める。浮世絵で知った日本のイメージを求めて南に下った彼は、すぐに風景画に着手し、心に描いていた日本的な穏やかさ、鮮やかな色彩を発見。春には花盛りの果樹園を繰り返し描き、夏は麦の収穫に注力。南仏の明るい空の青と、燃えるように鮮やかな太陽の黄色の組み合わせにも熱心に取り組んだ。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《糸杉に囲まれた果樹園》 1888年4月 油彩、カンヴァス
64.9×81.2cm クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


ファン・ゴッホは、ただ現実を写し取るのではなくて、色彩と筆遣いによって、現実を彼の意志に従わせるような強い表現力を作品に与えたいと考えていた。この頃からの作品には、そうした想いがより鮮明に現れているように見える。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《種まく人》 1888年6月17-28日頃 油彩、カンヴァス
64.2×80.3cm クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


アルルに移って8ヶ月後、10月に友人の画家ポール・ゴーガンが合流。影響を与え合いながらともに制作を行うようになる。しかし残念なことに共同生活はうまく行かず、2ヶ月ほどで終わりを告げた。この時にファン・ゴッホは最初の病気の発作に襲われ、自ら左耳を切り落とす事件が起きたことはよく知られている。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《黄色い家(通り)》 1888年9月 油彩、カンヴァス
72×91.5cmファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵
©Van Gogh Museum, Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation)


アルルで二人が共同生活を送った場所が、この作品に描かれる有名な黄色い家だ。今回の展覧会ではアムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館所蔵のこの作品も特別に公開されている。

ファン・ゴッホは、キリストの十二使徒になぞらえ、彼が敬愛したゴーガンを中心に12人の芸術家が共同制作をする「南仏のアトリエ」の実現を夢みていた。そのために始めた共同生活だったが、二人の個性の違いとそれがもたらす諍いや緊張、理想と現実の大きな差にファン・ゴッホの神経は耐えられなかった。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《夜のプロヴァンスの田舎道》 1890年5月12-15日頃
油彩、カンヴァス 90.6×72cm クレラー=ミュラー美術館蔵
©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


病状が一進一退を繰り返すなか、1889年5月ファン・ゴッホはアルルを離れ、同じプロヴァンスのサン=レミ郊外にあるサン=ポール=ド=モーゾール療養院に自ら入院する。この頃に描かれたのが、今回の見どころの一つでもある作品《夜のプロヴァンスの田舎道》だ。これはファン・ゴッホがプロヴァンスで描いたおそらく最後の作品とされ、夜空にそびえる糸杉を力強く描いている。

彼は、ゴーガンが提唱した「記憶から描く」という方法でこの作品を描いた。南仏での病気は彼の人生を困難なものに変えてしまったが、多くの重要なモチーフ、そして後世に知られるようになるファン・ゴッホ独特のタッチはこのアルルやサン=レミでの暮らしがなければ生まれなかったのかもしれない。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《サン=レミの療養院の庭》 1889年5月 油彩、カンヴァス
91.5×72cm クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


翌年の5月、彼は療養院を後にし、パリから近い北フランスのオーヴェール=シュル=オワーズに移る。穏やかなオワーズ川に沿った美しい村の風景にインスピレーションを得て、ファン・ゴッホは新しい様式にもトライしながら制作をつづけた。村に着いてまもなく、終わりかけていた春のモチーフを探して描いたのがこの《花咲くマロニエの木》だった。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《花咲くマロニエの木》 1890年5月22-23日
油彩、カンヴァス 63.3×49.8cm クレラー=ミュラー美術館蔵
©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


のどかな村の雰囲気が伝わる落ちついた筆遣い。この後、彼は渦巻く筆触が知られる《オーヴェールの教会》(本展見出品)などいくつかの名作を残しながらも、7月27日に自らを撃ち、2日後に弟のテオに看取られつつ37歳の若さでこの世を去ってしまった。

この展覧会では、1890年オーヴェール=シュル=オワーズに転地する前に描いた《悲しむ老人(「永遠の門にて」)》という作品が展示されている。これはかつて彼自身がオランダ時代に制作した版画を模写したもの。若い頃には悲しみにくれる人々という主題を好んで描いていたが、南仏の療養院での生活はしばしば憂鬱なもので、このテーマは彼にとって非常に身近なものだったとされる。ファン・ゴッホはそこに自分のどんな心の状態を映したのだろうか。


フィンセント・ファン・ゴッホ 《悲しむ老人(「永遠の門にて」)》 1890年5月
油彩、カンヴァス 81.8×65.5cm クレラー=ミュラー美術館蔵
©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands


この作品が描かれた1890年といえば、展覧会のもう一人の主人公ヘレーネ・クレラー=ミュラーが夫のアントンと結婚して2年目の頃だ。それから23年後の1913年、夫のアントンは25回目の結婚記念日の贈り物としてこの作品をヘレーネに捧げた。

早世したファン・ゴッホが生前に名声を得ることはなかったが、この20世紀の初め頃には弟テオの妻ヨーの尽力もあって、ファン・ゴッホの作品が芸術家や批評家を魅了。若い世代の画家たちにも大きな影響を与えていた。この1913年、ヘレーネは美術館設立に先立ってコレクションの公開を始めたが、この作品が展示室に加えられただろうことは想像に難くない。

偉大な画家と心からその作品を愛した女性コレクターの物語。貴重な作品の数々は2022年の4月まで日本国内の3ヶ所で巡回展示される。


「ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」

■東京会場

会期:2021年12月12日(日)まで

会場:東京都美術館 企画展示室

開室時間:9:30〜17:30※金曜日は9:30〜20:00(入室は開室の30分前まで)

休室日:月曜日※ただし11月8日(月)、11月22日(月)、11月29日(月)は開室

観覧料:一般2,000円、大学生・専門学校生1,300円、65歳以上1,200円

日時指定予約制 ※高校生以下無料(ただし日時指定予約は必要)

お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)

詳細は展覧会公式サイト:https://gogh-2021.jp

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