海外から渡ってきた「絵画展」と聞いて、あなたは誰の展覧会をイメージするだろうか。
ゴッホ、ピカソ、マティス、ルノワール、モネ、あるいはレンブラント、フェルメール・・・。そう、どれも遠い昔の画家たち。それもそのはず、私たちの生きるこの21世紀には、写真はもちろん、映像、さまざまな素材を使った彫刻、インスタレーション、さらにはCGまで、ありとあらゆるアートがある。数百年にわたってメインストリームでありつづけた「絵画」は今やその一つのジャンルにすぎなくなり、採り上げられる機会も少なくなってしまった。
絵画に「時代遅れのメディア」という感覚すら抱く人もいるかもしれない。
東京国立近代美術館で 6月12日から再開となった『ピーター・ドイグ展』は、そのクラシックな絵画のイメージをいい意味で裏切ってくれる。今年必見の展覧会と言っていいだろう。
今年61歳になるピーター・ドイグは、今、世界で最も重要なアーティストのひとりとされる。
映像やインスタレーションのように、動いたり、音を出したり、宙に浮いたり、観客の前に飛び出すこともない静的な「絵画」。しかし彼の作品には、ほかではけっして表現することのできないような、人の心をとらえて離さない絵画ならではの力がある。大きなキャンバスをじっと見つめていると、どこか違う世界へと引きこまれるような感覚。色は時にとても鮮やかなのに、静けさと不穏な気配が見る人を包み、さまざまなことを想像させる。
彼は1959年スコットランドのエジンバラに生まれ、カリブの島国トリニダード・トバゴとカナダで育ち、ロンドンの美術学校に学んだあと、94年には名だたる美術家たちを輩出した英国のターナー賞にノミネートされ脚光を浴びた。
当時は、サメなど生き物のホルマリン漬けをアートにして有名になったダミアン・ハーストに代表される「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBSs)」と呼ばれる若手美術家たちがアート界を席巻していた時代。コンセプチュアル・アート系の新しい潮流を傍目に、ドイグはただひたすらに自身の絵画の表現を追求した。
上は彼の初期の代表作《のまれる》。森のすべてを、まさしく呑み込むように映しだす湖。彼の作品は一見幻想的で、作家の想像力から生みだされた光景のように見えるが、実はゴーギャン、ゴッホ、ムンクといった近代画家の作品の構図や主題、映画のワンシーンや広告、あるいは自身が暮らしたカナダやトリニダード・トバゴの風景など、いくつものイメージの組み合わせで創りあげられている。たとえばこの絵の中央にも見えるカヌーとその上でだらりと手を下ろしている人物は、映画『13日の金曜日』からのモチーフで、たびたび彼の作品に登場する。
そこに油絵独特の素材の質感が加わり、さらに作品に力を与える。細部を見ると、印象派のようなタッチであったり、色と面で構成される抽象絵画の影響も感じられる。絵画の歴史と現在の視覚文化に向き合い、複数のイメージを重ねて「いまだ見たこともない光景」をつくりあげる・・・。彼自身が「いつかどこかで出会ったような、でも行ったことのない、どこでもないどこか」と語る作品のありようは、こうした制作のプロセスによって生みだされるものなのだ。
下の《スキージャケット》は、なんとカナダのトロントの新聞に掲載された日本のスキー場の広告写真をもとに描かれたという。彼のインスピレーションの幅広さがうかがえる。
ドイグは2002年に活動の主な拠点を、ロンドンからトリニダード・トバゴの首都、ポート・オブ・スペインに移す。その前後から、彼は海辺の風景を主なモチーフとして選ぶようになり、これまで比較的厚塗りだった画面が、薄塗りの油絵具、または水性塗料の色彩のコントラストによって構成されるようになった。
ポート・オブ・スペインの中心地、ラペイルーズ墓地の壁沿いを歩く一人の男性。これはドイグが現地で撮影した写真にもとづいているというが、彼はこの作品を制作するにあたり、小津安二郎の映画『東京物語』のような計算された静けさも念頭にあったという。抜ける青空と強い陽射し、そして謎めいた人物の存在は、アメリカの画家エドワード・ホッパーを彷彿させ、またしても私たちの想像力をかきたてる。
ピーター・ドイグは、年を追うごとに評価が高まり、これまでロンドンのテートをはじめ、パリ市立近代美術館、バイエラー財団(スイス・バーゼル)など世界の名だたる美術館で個展を開催。日本では今回が初めての個展となる。
今も絵画に根強い人気のある欧米のアートコレクターのあいだで、ドイグは手に入れたい作家の一人だ。上記で紹介した代表作《のまれる》は、2015年のクリスティーズ・オークションで約2,600万米ドル(当時約30億円)で落札された。
こうした人気はどこから来るのだろうか。その秘密を探る鍵は、彼自身の言葉にあるのかもしれない。
「私はしびれのような感覚のものを生みだそうとしてきました。不確かで不可能ではないにしても、言葉にすることが難しいものを作りたいのです」(音声ガイドの作家メッセージより)
美しい音楽の旋律を耳にしたとき、私たちは言葉では表せない心地よい震えのようなものを感じる瞬間がある。同じようにアートでも、ほんとうに素晴らしい作品だけが到達できる領域、つまり単に絵具の塊であることをやめて現実を超えた力を帯びる瞬間、私たちは「しびれ」のような感覚に包まれる。
まさに「言葉にすることが難しいもの」。ピーター・ドイグはそれを表現できる貴重な芸術家の一人であり、それが言葉を超えて多くの人々の心に響くからこそ、世界に評価されるのだろう。
いま美術の歴史を創っている美術家と同じ時代を生きているということ。それもアートの楽しみのひとつといえるだろう。これからもピーター・ドイグの動向から目が離せない。
ドイグは現在住むトリニダード・トバゴで、誰でも無料で参加できる映画の上映会 「スタジオフィルムクラブ」を開催。このイベントのために数多くのポスターを制作しているのだが、この展覧会の最後にこれらが日本で初めて公開されている。
ずらりと並んだポスターはすべて直筆。本人も楽しみながら描いていることがわかるような筆致とウィットの効いたモチーフ。『東京物語』や『座頭市』など日本の映画、『ストレンジャー・イン・パラダイス』『お熱いのがお好き』など名作のイメージが並んで楽しい。
画家ピーター・ドイグのさまざまな面を見せてくれるこの展覧会。作品を見て思いのままに想像をめぐらせるための「心の準備」をして出かけたい。
東京国立近代美術館「ピーター・ドイグ展」
会期:2020年10月11日(日)まで
会場:東京国立近代美術館1階 企画展ギャラリー
住所:東京都千代田区北の丸公園3-1
開館時間:10:00〜17:00(入館は閉館30分前まで) ※当面の間、金・土曜の夜間開館を行いません。
休館日:月曜日(ただし8月10日、9月21日は開館)、8月11日、9月23日
観覧料:一般 1,700円、大学生1,100円、高校生600円、他
※新型コロナウィルス感染症予防対策のため、入館には事前に日時指定予約チケットのご購入が必要です。
詳細は展覧会公式ホームページ:https://peterdoig-2020.jp/