自由奔放に描かれたような、さまざまな線や形、色。太陽や星、月、あるいは人間や鳥のような、夢に出てきそうな幻想的なモチーフ・・・。ジュアン・ミロは、色あざやかな作品のイメージとその覚えやすい名前も手伝ってか、世界中で愛され、日本でもファンが多い。

しかし、そんな生き生きとした表現の裏で、彼が伝統的な絵画のあり方に反抗し、祖国を混乱させた戦争への想いや、政治・社会への反骨精神をその創作の原動力にしていたことはあまり知られていないかもしれない。

展示風景

いま上野の東京都美術館では、世界中から選りすぐりの傑作を集めてこのジュアン・ミロの生涯を振り返る展覧会が開催中だ。日本では、1966年にミロ自身も協力して東京と京都で開催されたものと並ぶ、最大規模の回顧展になるという。この貴重な機会に「なんとなく知っている」ミロの創作活動の全体像を実際の作品で体感してみたい。きっと知らなかったミロをたくさん発見できるはずだ。そして、なぜいまミロが注目を浴びているのかも。

画家になりたい、という強い想い。

ジュアン・ミロは、1893年にスペイン、カタルーニャ地方の都市バルセロナで生まれた。小さい頃からデッサンを描いていたというミロだが、父親の強い希望もあって1910年にバルセロナの薬局で会計係の仕事に就く。しかし望まぬ仕事の果てに病気にまでなってしまい、両親に手紙を送る。そこに書かれたのは「愛する自然の偉大な美しさを鑑賞する」ことさえできず、仕事の「囚人」になっているという、悲痛なほどの彼の想い。そして仕事を辞め「画家に専念します」と、新たな決意を両親に宣言したのだった。

展示風景 当時パリを席巻していたフォーヴィスムやキュビスムの影響が見てとれる

1910年代といえば、フランスのパリではマティスらを中心に強烈な色彩の「フォーヴィスム(野獣派)」や、ピカソとブラックが起こした「キュビスム」の運動が画壇を驚かせていた。こうした芸術の新しい潮流の影響は、ジュアン・ミロのいたスペイン・カタルーニャ州にも届く。しかもピカソは、ミロにとって同じスペイン出身の偉大な先輩である。こうした前衛芸術の大きな影響を受けながら創作をつづけ、1918年にはバルセロナの画商ジュゼップ・ダルマウのギャラリーで早くも初の個展が開催された。

この頃に描かれた《ヤシの木のある家》は、同じカタルーニャのモンロッチにあったミロ家の別荘に隣接する農家だ。ミロはまさしくこの場所で、病気から回復したのちに、画家になることを決意したのだった。後年のミロの作品とは違う、細密な絵のタッチ。しかしよく見ると、耕された畑などは単純化され、ミロのシュルレアリスム作品の源泉も見てとれる。

彼が友人に宛てた手紙の言葉が印象的だ。

「誰もが木々や山々の大きな塊ばかりを求め、それを描こうとしますが、草の葉や小さな花の音楽を聴くこともなく、渓谷の小さな石に注意を払うこともありません ー それはとても魅惑的なのに」

それは、彼が繊細な感性とまなざしで自然を感じとり、世界を見つめていたことを示唆させる。夢想的なモチーフを詩情豊かに描いていくこのあとの作品につながっていく彼の転換点が、ここに芽生えていたのかもしれない。

ジュアン・ミロ、パリに出る。

1920年、ミロは初めてパリを訪れ、憧れていた前衛芸術の最先端を目撃する。翌年には早くもパリでの初個展を行い、パリ15区のブロメ通りにあった画家アンドレ・マッソンの隣のアトリエに住み、シュルレアリスムの作家や詩人などと交流を持つことになった。「シュルレアリスム」は「超現実主義」と訳され、さまざまな意味合いやスタイルがあるが、主に夢や無意識といった現実にあらわれないものを表現しようという運動を言う。

ブロメ通り45番地のアトリエの跡地にはミロのブロンズ作品が置かれる。現在はこの作品の名を冠した「月の鳥広場」と呼ばれる(筆者撮影)

彼はパリとモンロッチを行き来しながら、都会で刺激を受けつつ、美しい田園地帯で創作活動を続ける。こうしたなかでシュルレアリスムに影響を受けた、詩的で自然への愛情に満ちたミロだけのスタイルが育まれていく。1925年から27年にかけて、ミロは「夢の絵画」と呼ばれる100点以上の作品を創りあげた。ここには「夢の進行」を表す「記号」として、動きのある線が描かれる。ほかにも彼は自然が幻想に侵入するイメージを描いた<空想の風景>シリーズの制作も始めている。

展示風景 

ところがミロは、芸術が商品化されて、アーティストが注目を浴びる世間の動きに違和感を覚えるようになる。彼は、内部から「絵画を暗殺したい」と語るまでになり、コラージュの制作など、伝統的な絵画を否定する表現を強めていく。そして独自の記号と色彩の言語によって自分の芸術を解放し、再創造しようと試みたのだった。

この《オランダの室内Ⅰ》は一風変わった作品だ。彼は1928年に初のオランダ旅行に出かけ、マウリッツハイス美術館やアムステルダム国立美術館で17世紀のオランダ絵画に強い印象を受ける。これはヘンドリク・ソルフという画家の描いた《リュートを弾く人》を、ミロ独自の解釈で描いたバージョンだ。展覧会会場にはもとになった作品の写真もあって、彼が作品からどんな夢想を抱いたのかがわかるようで興味深い。

悲しい現実と向き合うミロ。

しかしミロの故郷スペインで悲しい出来事が起きる。1936年に始まるスペイン内戦だ。彼は祖国の政治的な混乱に影響を受け、それを画面に感じさせながらも、不穏なその現実から目をそむけるように、自分の内面を探求するようなより詩的な表現へと作品を変化させていく。

展示風景 
展示風景 

内戦が始まったときにモンロッチにいたミロは、その地でこの一連の《絵画》シリーズを描いた。メゾナイトと呼ばれる茶色い木質繊維板に、砂やタールなどの素材も使った荒々しいタッチ、心の叫びのような形が印象的だ。このあとミロはパリに亡命するが、1939年には第二次世界大戦も勃発。彼はノルマンディー地方にある村ヴァランジュヴィル=シュル=メールに避難して、有名な<星座>シリーズを描くことになる。

このシリーズは、ミロが戦争という現実から逃避し、詩や音楽に触発されて制作したもの。簡略化した音楽的な線をもつ儚い画面に、神話的な世界、その中の女性や鳥、星、脱出の梯子などが描かれる。ミロ本人が「高度に詩的な次元に到達した」と語ったように、彼は戦争からの逃避をきっかけに、自分の創作世界を昇華させていくことになった。<星座>シリーズは全部で23点。現在は世界中に散らばっているが、本展はそのうち3点が集まる貴重な機会を提供してくれている。

終わらない、新しい絵画への挑戦。

戦争が終わった1947年、ミロは初めてアメリカを訪れ、依頼された壁画の制作に取り組んだ。彼はアメリカに逃れていた旧友たちと再会したほか、若いアメリカの画家たちとも交流して刺激を受ける。版画や陶芸、彫刻にも取り組み、一方でそれまでとは対照的なスタイルをもった絵画にも挑戦していた。

この《クモを苦しめる赤い太陽》では、黒い記号的な線が強調され、まるで楽譜のようにも見える。抽象画への傾向も見られるが、彼は自分が抽象画家と位置づけられることには否定的だったという。「私にとって、画中の形や図像は決して抽象的なものではなく、常に何かを表す記号である。それは常に人間であり、鳥であり、あるいは何かほかのものなのだ」。観る側にとってはまるで謎解きのようだが、タイトルから絵に描かれたものを探るのは、ミロ作品鑑賞の楽しみでもある。

1956年に、ミロはスペインのマジョルカ島パルマに念願の広いアトリエを構え、自身の芸術を再検討し、じっくりと作品に向き合いながら制作をするようになる。またかねてから日本の文化に大きな関心を寄せていた彼は、1966年と1969年に相次いで訪日。伝統芸術や芸術家の考え方、創作のプロセスに自分と似たものを感じ、とりわけ北斎の画力を称賛したといわれる。

この《太陽の前の人物》は、日本の画僧・仙厓義梵が描いた《○△□》から着想を得て、それを太陽と人物になぞらえて描いたもの。毛筆の書を思わせる表現に、日本とのつながりが見てとれる貴重な作品だ。

ミロはアメリカの若い芸術家たちにも触発されて、大画面の作品を制作するようになる。技法的にも、従来の伝統的な絵画の方法にこだわらず、バケツや壺から絵具を垂らしたり、カンヴァスに火をつける、ナイフで切り取るなど、かなりラディカルな手法も使うようになった。

これは彼が若い頃に、芸術の商品化や、作品やアーティストが神聖化されることに反抗したことにつながる。ミロは、絵画が絵画らしくあったり、誰か有名な画家の作品というだけで価値が高まることに疑問を持っていたのだろうか。彼は「絵画の本質」とは何かということを常に考え、1983年に90歳で亡くなるまでそれを追い求めつづけたという。

「絵を描きたい」という純粋な気持ちから画家になり、特定の運動に属することもなく、自由に、常に新しい表現を試み続けたジュアン・ミロ。祖国の内戦や戦争があってもそれを貫き通した芸術家としての強い信念は、戦争の脅威が高まる現代に生きる私たちにも大切なメッセージを送ってくれる。

「ミロ展」

会場:東京都美術館 企画展示室

会期:2025年7月6日(日)まで

開室時間:9:30〜17:30、金曜日は20:00まで(入室は閉室の30分前まで)

休室日:月曜日、5月7日(水)※4月28日(月)、5月5日(月・祝)は開室

詳しくは展覧会ウェブサイトへ

https://miro2025.exhibit.jp/

※記載情報は変更される場合があります。

※最新情報は展覧会公式サイトをご覧ください。

※掲載の展示風景は許可を得て撮影しています。

(文・写真)杉浦岳史

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