フランスの暮らしとデザインを紹介する連載の25回目は、2026年9月、パリ9区にオープンした「オテル・デ・パントル(Hôtel des Peintres)」をご紹介します。19世紀末に若い画家たちが身を寄せた下宿屋を、オペラや映画の舞台美術で知られるアーティストと建築家が、まるで昔からそこにあったかのようなアートの館へとつくり変えました。

窓には1800年頃のアンティークのステンドグラスを、新たにつくった枠に合わせて組み直した。この窓を通して、館内に温かみのある光が差し込む。
パリ9区、サン・ラザール駅からピガール広場にかけて広がる一帯は「ヌーヴェル・アテーヌ(新しいアテネ)」と呼ばれる。19世紀、ロマン派の画家や作家、音楽家たちが集い暮らし、パリの知と芸術の中心となった地区だ。その一角、いまは歩行者専用となって静けさに包まれたブリュッセル通りに、控えめな佇まいの小さなホテルが誕生した。
建物はもともと、19世紀末に家族経営の下宿(パンシオン・ド・ファミーユ)だった場所。絵のモデルたちが仕事を求めて集まった“モデル市”で知られていたピガール広場に近いこともあり、アカデミー・ジュリアンやアカデミー・コラロッシといった私設美術学校に通う若い画家たちが、ここに暮らしたという。その後、作家ヴィリエ・ド・リラダンが暮らす邸宅となり、1940〜50年代にホテルに。フランス語で「画家たちのホテル」を意味するホテル名は、この館の記憶に由来している。

金色のダマスク柄の布で壁を張った客室。
界隈には、名だたる文化人たちの足跡が残る。通りの向かいではエミール・ゾラが「私は弾劾する(J’accuse…!)」を書き、通りの角には作曲家エクトル・ベルリオーズが晩年を過ごした家がある。ホテルに面した小さな広場は、彼の名を冠した「エクトル・ベルリオーズ広場」だ。すぐ近くのエディンバラ通りにはクロード・モネが住み、サン・ラザール駅にたちこめる蒸気を描いた。ローマ通りのステファヌ・マラルメの家には文学者たちが集い、エドゥアール・ヴュイヤールは隣の広場の雪景色を絵に残している。やがて若い芸術家たちは、入市税がかからず家賃も安かった、当時はパリ市外のモンマルトルへと移っていき、そこから近代美術が花開いていく。

胸像や地球儀、古い肖像画を飾った共用スペースの一角。舞台美術家でもある、アートディレクターのアントワーヌ・フォンテーヌならではの演出が、館のあちこちに。
空間をつくり上げたのは、映画と建築、二つの世界の才能だ。アートディレクションを担ったのは、ヴェルサイユ宮殿の王立オペラ劇場やミラノ・スカラ座、映画『宮廷料理人ヴァテール』やソフィア・コッポラ監督の『マリー・アントワネット』などの美術担当として知られるアントワーヌ・フォンテーヌ。ロサンゼルスのホテル「シャトー・マーモント」におけるスタジオKOとの協働など、さまざまなプロジェクトで経験を積んだ建築家、アガト・シャボルが、空間に確かな骨格を与えた。
インテリアのテーマは「Mise en scène(演出)」。この館が刻んできた歴史を感じさせるよう、すべてが昔からそこにあったかのような空間に仕立てたという。「すべてオーダーメイドで、工場でつくられたものは何ひとつありません。細部の一つひとつが同じ物語を語るようにしたかった。ここで1880年代を舞台にした映画を撮っても、違和感はないはずです。コンセントとコーヒーマシンは別ですけどね」とオーナーのアベル・ナミアスさんは笑う。

深い赤で統一された客室。壁やヘッドボードは、まるで舞台衣装のようにファブリックで包まれている。

バスルームには、赤い石目が美しい大理石「ブレッチャ・ペルニーチェ・ロッソ」をふんだんに使用。真鍮の水栓金具は、フランスの老舗メーカー、エルボーのもの。
全17室の客室とスイートには、上質な素材が惜しみなく用いられている。壁や椅子を覆うのは、ルリエーヴル、ピエール・フレイ、マニュエル・カノヴァスといった名門テキスタイルメゾンによる、深い色合いのベルベットやシルク。ランプシェードはすべて、フランス装飾の伝統を受け継ぐアンヌ・ソコルスキーの手づくりだ。木の羽目板(ボワズリー)も職人がこの場で手づくりし、手作業で色を付けた。
館内の壁を飾るのは、ナミアスさんがパリのオークションハウス「ドルーオ」などで一点ずつ探し集めた30点のオリジナル絵画。「ホテルにはよく複製や写真が飾られていますが、ここでは本物の絵画にこだわりました。階段にも絵を飾っているので、エレベーターではなく、階段で絵を眺めながら降りてもらえたら」。館のそこかしこに、アートが息づいている。

花と鳥を描いたクラシックな柄の布で壁を覆った客室。赤いカーペットとベルベットのチェアが華やかさを添える。

天井から下がるフリンジ付きのランプシェードも、アンヌ・ソコルスキーの手仕事。

トレイヤージュという格子細工で飾られる中庭。朝食は庭に面したこのテーブルで。噴水の水音が心地よく響く。
1階には、パリ市内ではとても珍しい50㎡の中庭がある。噴水の水音が響く静かな庭を前にしていると、田舎の邸宅に滞在しているような気分になれる。夕暮れどきになると、サロンは照明を落とし、カクテルやワインを片手に語らう、プライベートなレセプションのような場へと姿を変える。

レセプションのカウンターは設けず、このサロンでチェックインを行う。
従来のコンシェルジュサービスを「カルチャー・エンジニアリング(文化的なご案内)」に置き換えたのも特徴。チェックイン時、メゾンが独自に編集した「ギッド・デュ・フラヌール(散策者のためのガイド)」が手渡される。定番の観光ルートから離れ、ロマン主義博物館やギュスターヴ・モロー美術館といった小さな美術館や、審美眼のある人のための散策コースを提案している。

オーナーのアベル・ナミアスさん。映画プロデューサーとして活動するかたわら、ピガールの歴史ある劇場「ル・トリアノン」と「エリゼ・モンマルトル」の共同オーナーでもある。
この館を構想し、営むのは、映画プロデューサーのアベル・ナミアスさん。ル・トリアノンやエリゼ・モンマルトルといった界隈の伝説的な劇場の共同オーナーであり、ピガール近辺に残る歴史ある場所を、現代によみがえらせてきた人物だ。
「このホテルで、古き良き時代の記憶をよみがえらせたかったんです。大きなロビーのあるホテルは美しいけれど、どこか無機質でしょう。ここは家のように親密な場所にしたかった。そのほうが人は言葉を交わすようになるし、くつろげると思うのです」とナミアスさん。
画家たちの記憶が息づく館で、ロマン派の時代のパリに暮らすようなひとときを過ごしてみたい。
Hôtel des Peintres(オテル・デ・パントル)
38 rue de Bruxelles, 75009 Paris
客室数:17室
料金:1泊€250〜
https://www.hoteldespeintres.fr/
(文)木戸 美由紀/Miyuki Kido 文筆家
女性誌編集職を経て、2002年からパリに在住。フランスを拠点に日本のメディアへの寄稿、撮影コーディネイターとして活動中。株式会社みゆき堂代表。マガジンハウスの月刊誌「アンド プレミアム」に「木戸美由紀のパリところどころ案内」を連載中。
Instagram:@kidoppifr
















